日本ラジオ博物館

Japan Radio Museum

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台湾の放送とラジオ


用語、内容について

本稿では、地名等は1930年代当時の表記としている。台湾の住民については「本島人」という表現も使われるが、本稿では「台湾人」で統一した。また、中華民国は中華人民共和国成立前の国名を意味している。
中華民国、台湾または台湾人という表現に対して、現代の中国、台湾問題に対する政治的意図は一切含んでいないことをお断りしておく次第である。
本稿は、当館の所蔵品と、日本放送協会、逓信省などの公式資料から、現地での放送の概要をまとめたものである。当時発生した放送に関連する事件、事象を網羅するものではない。


CONTENTS

はじめに

台湾における放送の始まり

台湾放送協会の設立、本放送の開始

放送の特徴

その後の放送の発展

台湾で使われたラジオ 

 ナショナルZ-3型 改良型3号

戦時下の放送、第二放送計画の頓挫

台湾の放送局一覧

台湾放送協会の最期

参考文献

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はじめに

台湾は1895(明治27)年に日清戦争の結果、清国より割譲され、以後1945(昭和20)年の太平洋戦争の敗戦まで50年間日本領であった。台北市に「総督府」が置かれ、日本から派遣された総督を中心とする行政機関が統治していた。台湾統治に関しては文献(5)を参照の事。

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台湾における放送の始まり

1921(大正10)年頃から、基隆(キールン)無線電信局が基隆市公会堂で香港又は上海の放送を傍受して一般に公開する普及啓発活動を行ったのが、台湾のラジオの歴史の始まりとされる。もちろん、アマチュアの活躍はあったと思われるが記録は確認していない。翌1922(大正11)年には東京の白木屋で行われた放送実験の電波を基隆無線電信局で傍受して台北に中継して公開したという(1)。東京都内の近距離で実施された小電力の実験放送を台湾で受信することは、本格的な無線局の施設を使っても相当困難であったと思われる。

1925(大正14)年6月17日、東京での日本初のラジオ試験放送開始(同年3月22日)から遅れること3ヶ月、最初のラジオ放送が実施された。これは台湾統治始政30周年記念事業として試験的に10日間実施されたものである。もちろん本格的にラジオ受信機が発売されていたわけではなく、震災前に頻繁に東京などで実施されたラジオの公開実験に近いものである。台北市の台湾総督府庁舎内に送信出力50Wの放送機を設置し、庁舎の一室を毛布などで簡単に防音したスタジオを設けて放送した。冷房などなく、非常に暑くて大変だったという(1)。受信機は台北市内新公園に設置され、一般に公開された。

その後日本国内同様ラジオの人気は高まったが、放送が始まるまでには時間を要した。総督府交通局逓信部は自身の庁舎2階の一部を改造して送信主力1kWの放送設備を設け、廊下を挟んだ別室にスタジオと調整室を設けて1928(昭和3)年11月1日から試験放送を開始し、同年12月22日より実験放送に移行した。コールサインはJFAKであった。放送機の設置には逓信省技師寺内松太郎が嘱託としてかかわったが、他の番組編成等の業務は逓信局職員が担当し、アナウンサーは現地で未経験者を募集して男女各1名を採用した。放送が全くなかった中で未経験者が実務を行うのはかなり困難だったようで、アナウンサーの教育も、先行していた朝鮮の放送を聞かせて習得させたという(1)。

官営の実験放送については聴取許可制ではあったが聴取料は無料であった。ラジオ放送に関する法規が整備されていなかったため、総督府は府令により国内の放送用私設無線電話規則のうち聴取無線電話に関する規定を準用することとした。1929(昭和4)年10月末における聴取者数は9,000余りに達した。 日本国内からの中継放送も実施されたが、亜熱帯地方の気象条件から空電がひどく、スーパーヘテロダイン式の受信機を使用して主に熊本放送局を受信したが受信状態は良くなかった。特に夏季は電波状態が悪く、中波での中継が可能なのは10月から3月に限られた。 

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台湾放送協会の設立、本放送の開始

1kWの試験放送の設備ではサービスエリアが台湾北部に限られた。台湾総督府は御大典記念事業として翌1929年から10kW放送局の建設を開始し、1930(昭和5)年11月末に竣工、翌1931(昭和6)年1月15日から本放送を開始した。この大電力設備の完成により、当初の1kWの放送設備は廃止された。送信機はドイツ・テレフンケン製、周波数は670kcであった。 

本放送の開始に先立って放送事業の運営形態が検討され、事業そのものは総督府の直営とされた。しかし、技術面以外の編成、周知開発、受信機関連業務などの放送実務は社団法人台湾放送協会を設立し、1931(昭和6)年2月1日より委託して実施することになった。放送設備は総督府逓信部が所有し、台湾放送協会はこの設備を無料で使用した。台湾放送協会は国内同様月額1円以内の聴取料を徴収して経費を賄うことになったが、この有料制の開始によって聴取者は半減した。しかし9月までには7,000を超えるまでに回復した。(1)

台湾では放送の始まりそのものは日本で放送開始された直後であり、朝鮮よりも早かったが、本放送の開始は遅く、すでに日本国内では全国の主要都市にに放送局が設置され、聴取者が100万に近づきつつあった。

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放送の特徴

当時の台湾の人口約450万のうち、日本人はわずか21万人程度であったが聴取者の9割が日本人だった。これは放送内容が日本からの中継を中心として日本人向けの日本語の番組が多かったことによる。娯楽放送については日本からの中継も多かったが、先述のように夏季は電波状態が悪く、中継ができないため、夏季は台湾制作の番組のみとなって娯楽、教養番組が減り、放送時間が1時間短くなった。台湾放送協会制作の番組を日本と中継する交換放送も行われた。

台湾の放送の大きな特徴として、広告放送が実施されたことがある。これは、夏季に電波状態が悪く、日本からの中継放送ができないときに「夏季特別サービス」として日本から落語家や講談師などの芸人を招いての放送を計画したが、予算がないためにその費用を広告でまかなおうとしたものである。放送の方式は現代の民間放送とはだいぶイメージの違うもので、番組と別枠のCMはなく、間接的な広告放送であった。放送枠を放送局が提供して出演者や番組内容をスポンサーが決めるAタイプ(番組中で出演者が広告できる)と、放送局が制作する番組に費用を払って放送の前後に提供社名をアナウンスするだけのBタイプがあった。スポンサーとしては、花王石鹸、赤玉ポートワインなどが契約した。広告放送は1932(昭和7)年6月から6ヶ月間試験的に実施されてから本放送に移行する計画であった。東京にスポンサー獲得のための出先事務所まで設置して契約獲得に努めたが、日本新聞協会から総督府に広告放送中止を求める抗議の声が出て、当初の契約があった分を実施したのみで9月放送分を最後に3ヶ月で中止された(2)。新聞協会が神経をとがらせたのは、広告放送の広告費をスポンサー各社が新聞広告の予算から捻出したため新聞広告の減少を恐れたといわれるが、実際には広告放送のスポンサーが新聞広告で放送の告知を行ったために新聞広告の売り上げが増えたという(1)。

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その後の放送の発展

台北は台湾北部にあり、南部との間に山岳地帯があるため南部での受信状態が悪かった。このため実験放送に使用していた1kW放送設備を台南に移設し、台南放送局が設立されることになった。台南放送局は1932(昭和7)年4月1日より放送を開始した。コールサインJFBK、周波数720kcであった。台南放送局の開局もあって聴取者は増加し、1933(昭和8)年末には1万5千に近づいていた。 

台湾中部も地形の関係で聴取状況が悪く、1935(昭和10)年に5月11日に台中放送局が設置された。出力は台南と同じ1kW、周波数580kc、コールサインはJFCKであった。台南、対中の各放送局には台湾放送協会の支部が設置された。1936(昭和11)年3月末には聴取者が2万3千を超えている。

新設された放送局も施設の建設は技術面を逓信当局が実施したが、予算管理の都合上台北以外の放送局では全業務を台湾放送協会が受け持つことになった。

当初は夏季は中波による中継ができなかったが、1934(昭和9)年7月以降、東京から短波の外地向け放送が始まったため、台湾では国際電話(株)の無線電話施設を利用して中波と短波の状態の良いほうを選択して中継することができるようになった。こうして通年で日本からの中継を実施できることになった。このため、番組編成上は日本からの中継番組が増えることになった(中継の割合は40%程度)。また、台湾島内の中継についても有線の中継に変更されて受信状態が改善された。なお、中継の費用については当所の、設備管理業務は官営という原則に従って、総督府が国際電話(株)に支払った。

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台湾で使われたラジオ

台湾では、日本国内と同じ中波のみの放送が行われ、電気の電圧、周波数も国内と同じであった。このため、日本国内と同じラジオセットが使われた。国内同様主要都市にラジオ相談所が設置され、ラジオの故障診断、修理などの受信機業務は台湾放送協会が実施していた。受信機については国内同様3球または4球のセットが大半を占めていた。満州国のように特別なラジオが作られたという記録はなく、大半の受信機は日本国内から出荷されたものであった(1)。台湾放送協会は普及のために受信機の斡旋販売を行った。松下の広告に、次に紹介する機種が台湾放送協会選定ラジオになったとある(紹介する現物は日本国内で使用されたものである)。

ナショナルZ-3型 改良型3号 松下無線(株) 1938年頃
 
  
TUBES: 24B-24B-47B-12B, Magnetic Speaker,

松下は、1937年にZ-ではじまる型番の新型受信機を発売し、「国民受信機」と称した。戦後の国民型受信機とは関係ない単なる商品名である。シンプルなデザインと安価な価格設定がこのシリーズの特徴である。Z-3型は、このシリーズでは高級な高一セットである。回路は再生グリッド検波だが、通常の豆コンを使った容量再生ではなく、短波受信機に使われるようなスクリーン電圧を可変抵抗器で変化させる方式を採用しているのが特徴である。この機種はキャビネットとシャーシのデザインを改良した後期型である。

(所蔵No. 11995)
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戦時下の放送、第二放送計画の頓挫

台湾は中国沿海部、東南アジアなどに近く、南方の植民地や敵対する中国に対する放送の拠点と位置づけられ、1937(昭和12)年、支那事変勃発に伴い福建語、英語など4か国語に短波による海外放送が開始された。福建語のニュースは中波でも放送され、台湾人の聴取者が増加した。海外放送拡充のために新たな100kW大電力放送所が台湾中部の民雄に建設され、1940(昭和15)年9月よりJFAKの新送信所として運用が開始された。昭和16年度末には聴取者が8万5千を数えた。

植民地の放送は、現地語と日本語の放送を出さなければならないことが運用を難しくする。日本語教育を拡充してはいたが、大多数を占める現地語を使う住民に向けた番組を放送しなければ放送の普及は望めない。台湾では番組の大半が日本人向けであったために、多数を占める台湾人の聴取者はごく少なかった。聴取者は戦争の進展とともに国内同様増加し、1941(昭和16)年度には8万5千に達したが、日本人の間の普及率は50%弱であったが、台湾人については4%の普及率に過ぎなかった。朝鮮では早くから第二放送を利用した朝鮮語の放送が実施され、効果を上げていた。台湾でも新送信所の建設を機に、放送開始10周年である1941(昭和16)年度を目指して第二放送を開始し、第一放送を日本人向け、第二放送を台湾人向けとする計画だった。台北放送局には10kWの第二放送用放送機が設置され、これ以外の局の第二放送は民雄の大電力設備でカバーする計画だった。しかし41年度中には放送開始できなかった。結局第二放送は戦況の悪化による資材不足などの理由で実現しなかった。日本国内とほぼ同時に放送を開始し、進展してきた朝鮮に対し、台湾ではスタートが遅れたことが放送を拡充しようとしたときには戦時下に入ってしまい、思うように計画が進まなくなった。

このほかの放送拡充のための放送局の移転、設備更新、新設計画も進まなかったが、台南放送局の受信状況改善のため嘉儀放送局については計画通り設置され、1941年8月に放送開始した。この局は出力500W の中継局だった。1942年度以降の太平洋戦争下の台湾のラジオについてはラジオ年鑑の発行がなく、記録されていない。

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台湾の放送局一覧 (1)(2)

名称 コールサイン 周波数 設立 電力 放送機 備考 言語
台北(板橋) JFAK 750kc 1928.1 10kW テレフンケン水晶制御式 初期は670kc 日本語*
台北第二 JFAK-2  不明  1940頃 10kW  日本電気  設備のみ、実現せず  現地語
台北(民雄) JFAK 670kc 1940.9 100kW 日本電気 日本語*
台北 JFAK 9695kc 1940.9 10kW 不明 海外放送用 英・中他
台北 JFAK 10535kc 1940.9 10kW 不明 海外放送用 英・中他
台南 JFBK 1040kc 1931.4 1kW 東京電気(株) 初期は720kc,旧台北の機材使用 日本語*
台中 JFCK 580kc 1935.5 1kW 逓信部無線修理工場製 日本語*
嘉儀 不明 不明 1941.8 500W 沖電気(株) 中継局 日本語*

* : 日本語局には、一部台湾語等の番組もあった。

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台湾放送協会の最期

日本がポツダム宣言を受諾して降伏した後、1945(昭和20)年10月25日に台湾の施政権が連合国代表として中華民国に返還された。この日以降、台湾放送協会の放送局は「台湾広幡電台」となった。台湾放送協会及び各放送局が接収されたのは11月に入ってからであった。中華民国政府もラジオについては聴取許可、有料制を取ったが、接収直後の聴取者数は戦時中のピークの8万5千から3万余りに減っていた。しかし聴取者の半数以上が日本人であったことを考えれば台湾人の聴取者はそれほど減っていないといえる。1949(昭和24)年の中華人民共和国の成立によって中華民国政府が台湾に移り、「台湾広幡電台」は「中国広幡公司」となった。(3)

戦後の台湾の放送については文献(3)にくわしい。

戦前期の放送設備に関しては、旧台中放送局の局舎と、3ヶ所のラジオ塔(4)が現存し、保存されている。

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参考文献

1)電波監理委員会編 『日本無線史』 第12巻 (電波監理委員会編 1951年)
2)日本放送協会編 『ラジオ年鑑』 昭和7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18年版 日本放送協会編
3)貴志俊彦 川島真 孫安石 編 『改訂・増補 戦争・ラジオ・記憶』 (勉誠出版 2015年) 6,800円+税 Amazon.co.jp で購入する
4)一幡公平 『ラヂオ塔大百科2017』 (タカノメ特殊部隊発行 2017年) 1,500円(税込み)+送料200円(税込み)
5)『別冊1億人の昭和史 日本植民地史3 台湾・南洋』 (毎日新聞社 1978年)

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