日本ラジオ博物館

Japan Radio Museum

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中国占領地域の放送とラジオ

Radio in Occupied Area of North and Central China


中国の放送と日中戦争

中国では1924(大正13)年頃から外国人による民間放送が開始された。その後は租界内の外国局と中華民国政府の官営局が混在する状態であった。1931(昭和6)年に南京に開局した中央広播電台(XGOA,681kc)は当時アジア最大級の75kWの大出力を誇った。この大電力局は周波数680kcの福岡放送局に妨害を与えたため、日本側の抗議により1933年9月1日以降660kcに変更された。

日中戦争直前の中国には80以上の放送局があり、大半は広告料金を収入源とする民間放送で、音楽などの娯楽番組が中心であった。特に国際都市上海では官営、租界内の外国資本による局など35局がひしめき合っていた。コールサインは官営局がXG**、外国局がXQ**を付けるのが原則であった。1936年には外務省、逓信省、放送協会が協力して現地外国資本の放送局を買収し、日本人向け放送局として大東放送局(XQHA)を開設した。

1937(昭和12)年7月の盧溝橋での日中両軍の衝突をきっかけに日中戦争(当時は日華事変と呼んだ)が始まった。9月25日には南京のXGOA局が爆撃により放送を停止した。大陸に派兵された日本軍は主要都市を占領し、各地で軍の管理下で放送が行われることになった。

日本軍占領下での本格的な放送は天津からはじまり、その後占領地域の拡大に従って放送局も増えていった。これらの放送局は1945(昭和20)年の日本の敗戦以降、多くが国民党政府により接収された。その後の内戦を経て1949年の中華人民共和国建国後は一部が同国の放送局として運用され、現在に至る。

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CONTENTS

北支の放送とラジオ

華北広播協会の設立

北支標準型受信機

  北支標準型第三号A受信機

華北標準型受信機

  華北標準型第十一号受信機

  華北標準型第十三号受信機

蒙古の放送とラジオ

中支の放送とラジオ

参考文献 

注) 本稿には現在では不適当な語句も含まれるが、地名、用語は1937年当時のものを使用した。

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北支の放送とラジオ
(北支:北京を中心とする中国北部を当時このように呼んだ。華北と呼ぶこともある)

1937(昭和12)年の事変勃発後、天津駐屯軍は現地の放送を停止させ、満州電信電話(株)に新しい放送局の建設、運営を担当させた。8月には北京に大電力放送局を設置し、日本放送協会が運営に当たり、翌1938年1月1日から放送開始した。占領地の拡大に従って放送局は増加したが、日本人の住民が多かった満州と違って、中国では二重放送を実施した大都市を除いて中国語での放送が中心であったが、順次各地で二重放送が実施された。二重放送では第一放送を大電力の中国語、第二放送を小電力の日本語放送とした。

 
済南放送局外観、日本国旗と中華民国旗が掲揚されている (絵葉書より、個人蔵)

終戦時の主な放送局を下表に示す。なお、最初から第一、第二放送があったのは北京のみで、他は後から第二放送が開始された。このため、第一放送については第二放送開始時に周波数が変更された局が多いが、経緯は省略してある。コールサイン欄カッコ内(XI**)は華北電政総局が運営していたときのコール。

名称 コールサイン 周波数 電力 言語 放送開始 備考 放送機 戦後の経緯
北京中央第一 XGAP 640kc 100kW 中国語 1938.1.1 1940.5.1 50kWより増力 東京電気
北京中央第二 XGAP 950kc 500W 日本語 1938.1.1
北京中央 XGAP 1350kc 500W 中国語 1939.9.1 広告放送 自作
天津第一 XGBP(XI3K) 630kc 500W 中国語 1937.8.1 広告放送 沖電気 国民党により接収
天津第二 XGBP 8200kc 100W 日本語 1939.6.20 東京電気
天津 XGBP 1110kc 100W 中国語 1942.2.21 広告放送 東芝
済南第一 XGCP 860kc 1kW 中国語 1938.3.21 日本電気
済南第二 XGCP 1100kc 100W 日本語 1940.1.1 義昌洋行
青島第一 XGDP 1150kc 500W 中国語 1938.3.21 東京無線電機 国民党により接収
青島第二 XGDP 700kc 50W 日本語 1939.12.10 義昌洋行
石門第一(石家荘) XGEP(XI4K) 780kc 500W 中国語 1938.5.5 東京電気
石門第二 XGEP 100W 日本語 不明 東京電気
太原第一 XGFP 720kc 500W 中国語 1938.11.3 沖電気 国民党により接収
太原第二 XGFP 1050kc 100W 日本語 1940.1.26 義昌洋行
唐山第一 XGGP(XIKG) 1160kc 100W 中国語 1937.11.22 自作 国民党により接収
唐山第二 50W 日本語 不明 自作
徐州 XGIP 1003kc 中国語 1938.12.4 中国放送協会に移管 国民党により接収
開封第一 XGKP 680kc 500W 中国語 1940.8.1 沖電気
開封第二 XGKP 50W 日本語 1940.8.1 山中電機
運城第一 XGJP 810kc 500W 中国語 1939.1.8 中国製
運城第二 XGJP 不明 100W 日本語 1941 自作
保定第一 100W 中国語 1943.2 自作
保定第二 100W 日本語 1943.2 自作

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華北広播協会の設立

盧溝橋事件後の1937年12月には、日本軍の手によって北京に「中華民国臨時政府」が誕生した。さらに1940年3月、南京に汪兆銘の「中華民国政府」が成立すると、臨時政府はそれに吸収されるが、その管轄区域には別途「華北政務委員会」を成立させ、日本との特殊な関係を維持できる方式がとられた。

1940年までに各地に残っていた外国系放送局は閉鎖または買収された。1940年6月29日、華北政務委員会より「華北広播協会条例」が公布され、北京中央広播電台が中心となって日本放送協会から派遣された人員で運営されていたこの地域の放送は新しい「華北広播協会」により運営されることになった。 聴取者に対しては、1940年より日本人については総領事館令による「放送無線電話受信機登記規則」により、また、中国人については行政委員会による「広播無線電話収音機登記規則」により、登記が必要になった。

1942年には規則が改正され、それぞれ日本人向け「放送聴取無線電話取締規則」、「収聴広播無線電話暫行弁法」(中国人向け)により、登記制から許可制に代わり、月1円の聴取料を支払うことになった。

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北支標準型受信機 

1938年7月、中華民国臨時政府はラジオ受信機の輸入を正式に禁止した。このため北支地区では日本放送協会が規格化された受信機を仕入れ、中央広播電台の監督の下に販売業者を通じて販売することになった。北支向け受信機は、この輸入禁止の前から放送局型受信機と同時並行して開発されていた。規格統一された北支向け受信機は、上中下5種類が計画されたいたという(文献7)。そのうちの4種類が、放送局型1号から4号であることは容易に想像される。残る1種類「上」に相当する高周波2段またはスーパー受信機が計画されていたのではないかと想像される。

最初に普及のための標準受信機として、軍の許可を得て放送局型受信機が供給された。当初は受信機の普及率が低く、購買力も低かったために1938年の放送開始後、放送局型1号、3号受信機を日本から持ち込んで300台程度を店舗などに貸し出し、「街頭ラジオ」のようにしたという。その後同受信機を街頭用として1000台導入し、これを販売する計画があったという。

北支標準型受信機は、放送局型受信機を並行して企画されたが、放送局型受信機のほうは国内ラジオ業界の反発によって進まなかったたが、北支向けのほうは1938年7月には生産が始まり、先に実現することになった(7)。製造したことが明らかになっているのは日本精機、早川金属工業、タイガー電機の3社である。局型1号、3号受信機は1939年に入ってやっと発売されたが、実際には市場に出回らなかった。北支標準型受信機はほぼ放送局型受信機と同じものだが、こちらのほうはまがりなりにも市場に供給された。しかし、他の受信機の供給を禁止しての独占販売だったので、この受信機の競争力があったということではない。

規格統一された北支向け受信機は、北支標準型受信機と命名された。北支標準型標準受信機が日本の放送局型受信機と異なる点は、電源電圧が220/110V兼用となっているところである。周波数はヨーロッパと同じ50c/sである。

受信機には、放送協会認定章に似たマークが付けられた。「放」のかわりに右書きで「広播」の文字が入っている。

当館が所蔵する標準型受信機を紹介する。


 北支標準型第三号A受信機 高一付4球再生式 日本精器(株) 1940年

   

基本的に放送局型3号受信機そのものであるが、電源電圧が220/110V 50c/sになっている。58-57-47B-12F の高一だが、音質向上のためプレート検波を採用し、再生妨害を避けるために半固定再生となっていて、感度が低い。都市部では実用になったのかもしれない。

 取り外してしまったが、失われた左のツマミのかわりに戦後の日本製のツマミが付けられていた。
日本に持ち帰られて戦後国内で使われていたようである。

(所蔵No.11539)

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華北標準型受信機 

華北広播協会設立後は、華北政務委員会が公認したラジオが「華北標準型受信機」として発売された。第二世代の標準型受信機といえるが、この種の受信機が何種類あったかは明確ではない。現在残されているセットから判断すると、日本製のセットの電源電圧を110/220V 兼用としたものが供給されたようである。周波数はヨーロッパと同じ50c/sである。

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華北標準型第十一号受信機 3球再生式 日本精器(株) 1940年

 

    

TUBES: 57-47B-12F , セミトランスレス, マグネチック・スピーカ

放送局型11号受信機と基本的に同じもの。電源電圧が110/220Vとなり、ヒューズホルダの形状が異なるのみである。11号受信機が量産を開始した年の製品である。中国は周波数がヨーロッパと同じ50c/sのため、国内と異なり60c/sの表示がない。スピーカが鉄フレームであること、また、アンテナ端子版の形状から、ごく初期型のものであることがわかる。前面パネル左下に北支標準型3号受信機と同じマークがついていることがわかる。

2台ある所蔵品のうち1台は使用感が少ない。1台の程度の悪いものには、写真の検査済証が残っている。

(所蔵No.11625/11851)

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華北標準型第十三号受信機 高一付4球再生式 日本ビクター蓄音器(株) 1944年

 

 

TUBES: 58-57-47B-12F, マグネチック・スピーカ,

ビクター製の高一受信機、58-57-47B-12F の構成で、認定品の紙フレーム製マグネチックを駆動する。オートトランスを使用しているためシャーシを浮かせてある。シャーシの構造は局型123号受信機に近い。高級品メーカだった日本ビクターには、電池式と局型123号を除くと国内向けにこの種のマグネチックを使ったセットは確認されていない。スピーカ部のマークは判読できないが、初期の「広播」マークとは形状が異なる。昭和19年1月の捺印がある、戦争末期の製品である。このセットには戦後、修理されて日本国内で使用された形跡がある。中国大陸には出荷されなかったのかもしれない。

(所蔵No.11768)

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蒙古の放送とラジオ

1937(昭和12)年8月27日、関東軍は張家口など、蒙古地域の都市を制圧し、蒙古連合自治政府を樹立させた。1938年に張家口に放送局が設立され、その後各都市に拡充された。なお、この地域については、資料によっては華北に含めていることもある。終戦時の放送局を下表に示す(続日本無線史 第一部より)。

所在地、名称 コールサイン 周波数 電力 言語 設立 備考 放送機 戦後の経緯
張家口第一 XGCA 843kc 500W 中国語 1938 義昌洋行 1945.8下旬接収、XGNCに変更
張家口第二 XGCA 1150kc 50W 日本語 1939 蒙?電電設備
張家口 XGCA 1000kc 50W 中国語 1942 松下電器
張家口(短波) 9Mc 10kW 1943 満州、東京連絡、国際放送 東芝
張家口(短波) 6Mc 10kW 1943 満州、東京連絡、国際放送 東芝
張家口(短波) 3Mc 200W 1945 国内中継用 大和無線
大同第一 800kc 500W 中国語 1943 大和無線
大同第二 1314kc 50W 日本語 1942 蒙?電電設備
厚和 815kc 500W 1941 大和無線
包頭 510kc 50W 1942 義昌洋行

これらの放送局の他に電話線を利用した有線放送も実施された。また、各地に街頭スピーカが268ヶ所設置されていた。聴取者は8,000名程度で、聴取料は無料、受信機は電気通信設備会社が無償貸与するものであった。

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中支の放送とラジオ

1937年末以来、中支地区の放送局は上海を中央局として現地占領軍が運営していた。汪兆銘政権の成立に伴って、中支那派遣軍報道放送班の管轄下にあった放送局が返還されたため、1940年12月、特殊公益法人、中国放送協会が設立され、1941年2月、これらの放送局は中国放送協会に継承された。ただし、実際には協定により事実上日本軍の管理下に置かれていた。これにあわせて各局のコールサインがXOJ*から、従来のXGO*に変更された。中国放送協会は歴史のある大電力局の南京放送局を中央放送局として、旧コールサインXGOAを継承して放送を開始した。しかし、重慶に逃れた国民党政府も同じXGOAのコールで放送したため、電波戦の様相を呈したという。下表に放送局の一覧を示す。

軍が運営していた時代の放送局一覧 (1939年現在)

名称 コールサイン 周波数 備考 放送開始
大上海 XOJB 900kc 中国語、英語
南京 XOJC 660kc
漢口 XOJD 1010kc
杭州 XOJF 990kc
蘇州 XOJH 1330kc
大東(上海) XQHA 630kc 日本語 1936.8

(注)大東放送局については外務省外交資料館に詳細な資料が保管されている

中国放送協会の放送局一覧(中波、終戦時) 

名称 コールサイン 周波数 電力 言語 備考 放送開始 戦後の経緯
中央(南京)第一 XGOA 660kc 10kW 中国語、日本語 1938.9 国民党により接収
中央(南京)第二 XGOA 1000kc 500W 日本語 1942.1.1
上海 XGOI 900kc 10kW 中国語、上海語、広東語、英語 爆撃により終戦時500W 1937.12 国民党により接収
上海 XQHA 580kc 200W 日本語、上海語、英語
上海 XMHA 500kc 1kW 旧華美電台
上海 XMHC 700kc 500W 旧華僑電台
漢口 XGOW 1000kc 1kW 中国語、英語 1939.2 国民党により接収
漢口 XGOW 600kc 200W 日本語 1942.1.1
杭州 XGOD 990kc 50W 杭州語、中国語、日本語
蘇州 XGOJ 1330kc 50W 蘇州語、中国語、日本語 1938.10 国民党により接収
寧波 XGON 1110kc 50W 寧波語、中国語、日本語 1941.8.10
徐州 XGIP 1000kc 中国語 華北から移管 1938.12.4 国民党により接収

海外放送(短波)

名称 コールサイン 周波数 言語 備考
上海第三 XGOI 9.300Mc 中国語、英語
上海第四 XGOI 9.665Mc 中国語、広東語、英語、マレー語、フランス語、オランダ語、日本語 南方向け放送は1942年5月で終了
漢口第三 XGOW 6.100Mc 中国語、英語

この地区では、従来外国租界内に民間放送局が多数設立され、短波の聴取やアマチュア無線なども自由であった。中国放送協会では、日本と同じような聴取許可制や、短波の禁止などを行おうとしたがうまくいかなかったようである。もともと富裕層に外国製受信機が普及していたためか、この地域の受信機普及のために特別なセットが作られたという情報はない。

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参考文献

 1)日本放送協会編 『ラジオ年鑑』 昭和13年版、15年版、18年版 (日本放送出版協会 1938, 1940, 1943年)
 2)電波監理委員会編 『日本無線史』 第十二巻 (電波監理委員会 1951年)
 3)続日本無線史刊行会 『続日本無線史』 第一部 (続日本無線史刊行会 1972年)
 4)『電気通信』創刊号 昭和13年11月号 (電気通信協会 1938年)
 5)「東アジア近代史とラジオ放送の誕生」 『公開ワークショップ資料』 (神奈川大学人文学会 2001年10月)
 6)『ラヂオの日本』 Vol.26 No.1 昭和13年1月号 (日本電波協会 1938年)
 7)『ラヂオ公論』 第280号(1938.7.30)、284号(1938.9.15) (ラジオ画報社 1938年)

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