日本ラジオ博物館

Japan Radio Museum

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戦後の学校放送受信機
(1946-)


目次

戦前の学校放送についてはこちらを参照

学校放送の再開

学放型受信機

  トム(Tom)74型 (学放1号型相当)
42p-p 8球スーパー 東京無線電機(株) 1948年

  ナショナル K-101B型 拡声装置
42p-p 8球スーパー 松下電器産業(株) 1951年頃

  マツダ学校放送用B型放声装置 TA-1078型 42p-p 10球スーパー 東京芝浦電気(株) 1948年

  マツダ携帯型レコードプレーヤ KS-1110型 東京芝浦電気(株) 1948年

  ナショナル K-104型(放送協会認定第13014号) 拡声装置
807p-p 8球スーパー 松下電器産業(株) 1950年(加筆訂正)

ナショナル GR-7 携帯型レコードプレーヤ 松下電器産業(株) 1951年頃

シャープ 型番不明 教室用スピーカ 早川電機工業(株) 1950年(NEW)

学校放送の発展

僻地と都会の教育格差

  OCEAN 5球スーパー付3スピード卓上電蓄 手製 1955年頃

学校放送用設備

  ナショナル・スイッチボード SB-102型 / ダイナミックマイクDM-1型 松下電器産業(株) 1951-57年

  ナショナル・レピータ DX22PB型 松下電器産業(株) 1959年

  教室用スピーカ メーカ不明

通信教育の拡充

  トリオ AF-250 ”シンフォネット” 3バンドトランスレススーパー 1961年 春日無線工業(株) 7,950円

テレビ教育放送の始まり 

教育用ラジオ受信機のその後

  ビクター 5A-245 日本放送教育協会推奨スクールラジオ 2バンド5球スーパー 1965年 5,400円

全放連型音響設備

  イーストン教室用スピーカ 東京音響(株) 1962年頃 

  卓上型音響装置 パナアンプ60R WA-605型 松下通信工業(株) 1967年頃

  ナショナル・レピータ CF-402型/専用交流電源CF-403型 松下通信工業(株) 1960年頃 26,500円

学校放送の運用

参考文献


第2展示室HOME


学校放送の再開

戦後、GHQの教育に関する指令による文部省の方針に準拠した内容で、1945年12月3日から児童向けの学校放送が再開された。戦前は、ラジオが全国の学校に普及していないことから学校放送の聴取は義務ではなかった。戦後、GHQの指示により学校放送の利用を強化するに当たって、学校放送受信機の実情が調査された(2)。これによると、全国の学校の81%にラジオが普及していた。未設置校および罹災した学校に対して、1万台の家庭用受信機が優先配給されることになった。設備がある学校であっても、全体の58%が何らかの故障を抱え、満足な状態ではなかった。このため、教師向けのラジオ修理技術の講習会が開催された。

1947年には、教育基本法が制定され、戦前の国定教科書による画一的な教育から、学習指導要領に基づく文部省検定教科書による戦後教育へ移行した。学校放送は、この新しい教育制度を広く理解させるためにも、積極的に利用するようになった。(1)

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学放型受信機

NHKでは、学校放送用受信機として、全校式放送設備を推奨していた。しかし、GHQの調査で、当時設置されていた全校式設備の音質が低いということから、GHQでは、アメリカの学校で広く使われていたポータブルラジオを教室に持ち込む方式を勧めてきた(1)。1945年末からNHKでは、質が高く、低コストの全校式受信機の規格を作成し、1946年に「学放一号型受信機」の設計を完了し、公開した(2)。この受信機の仕様は、戦時中に発売された松下の「ナショナル国民10号拡声器」に近いものである。学放一号型は、42p-pの8球スーパーで、マイクアンプとピックアップ入力を持つ出力5Wの拡声装置である(3)。

 
トム71型の広告 (無線と実験1947年2月号裏表紙)

学放型受信機は、東京無線電機によって試作され、1946年中に一号型がトム71型として製品化された(4)(9)。引き続き807p-pの出力段を持つ大出力型の二号(15W)、三号(30W)が制定され、東京無線電機(トム)によって75型(二号)、72型(三号)として製品化された(5)。学放型受信機の規格はNHKの認定規格として制定され、新たに学校放送用拡声装置として13011から認定番号が与えられることになった。13011はトム71型学放一号受信機に与えられ、二号(13012)、三号(13013)もトムの製品が認定を受けた。
学放1号型と思われる拡声装置を次に示す。

トム(Tom) 74型 (学放1号型相当) 42p-p 8球スーパー 東京無線電機(株) 1948年 35,000円(免税、71型) 放送協会認定第13011号、逓信省型式試験合格第8号

  

 

TUBES: 6A7 6D6 6B7 6C6(MIC) 76 42 42 80 (6SJ7 6SL7 42 42 80)

NHK放送技術研究所が規格を作って基本設計を行った学放型受信機は、東京無線電機が試作を担当し、トム71型として商品化された。(10)によると1号、3号、2号の順で開発されている。1号が当初71型、2号が72型なのに対し、3号が75型と、型番が飛んでいる。その間1号型は改良を加えられていたとあることから(10)、この74型は71型の改良型と思われる。(4)には、71型として、メータが右側、モニタースピーカが左側になった写真が掲載されている。1949年に発行された学校放送用拡声装置の解説書には、メータが左側、スピーカが右側に付いたアンプの写真が71型として掲載されている。内部の真空管のレイアウトも文献(4)と(10)で異なっている。スピーカが左側にあるモデルは試作品と思われる。モニタースピーカには外部のマグネチックスピーカが並列に接続される。出力部から離れた反対側の高周波部とマイクアンプのすぐ前にモニタースピーカが付くレイアウトは問題があったのだろう。71型と74型の関係は不明である。本機の銘板には「逓信省型式承認合格品」とあるが、合格品の記録には74型は存在しない。

スーパー方式のラジオを備えた42p-pの拡声器で、移動が可能なようにハンドルが取り付けられている。トランク型のレコードプレーヤと教室用の、マグネチックスピーカを木製キャビネットに収めたスピーカーボックス10個と、ホーン状のスピーカーボックスにダイナミックスピーカを納めた拡声用スピーカ1個がセットになっている。アルミを多用しているため、外形寸法の割には軽い。電源電圧切替スイッチとメータが付いていて、電源事情が悪かった当時の状況をよく示している。

本機は、ラジオ部の部品が削除され、アンプ前段をGT管に改造されている。

掲載紙:『電波科学』復刊2号、4号(1947年)

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次に一号型受信機に近い仕様の拡声装置を以下に示す。

 ナショナル K-101B型 拡声装置 42p-p 8球スーパー 松下電器産業(株) 1951年 43,500円

  

   
  (左)初期型の広告:無線と実験1947.9

TUBES: 6C6 6WC5 6C6 6ZDH3 76 42 42 5Z3

 K-101型は戦時中の国民10号型拡声装置を改良して1947年に発売された10W型可搬式拡声器である。戦前のモデルは2.5V管、高周波2段であったが、6.3V管を使ったスーパーに改良された。このような携帯型拡声機は、宣伝放送、選挙運動、移動映画などに幅広く活用された。K-101の初期型は、6C6、6D6のみで構成されたスーパーだったが、B型では6WC5、6ZDH3に改良されたほか、IFが455kcに変更されている。外観上の初期型との違いは、つまみの色が黒から白になった程度である。カーボンマイクと10インチダイナミックを収めたスピーカーボックス2個を付属したものが基本的なシステムだった。この機種が学校で使われた記録は発見されていないが、学放一号型とほぼ同じ仕様で、切替器を組み合わせれば全校式アンプとして使うこともできた。この機種は学放型としての認定を取得していない。

本機は、ラジオ同調用ツマミ(中央)が失われている。

(所蔵No.46028)
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当館には、1948年製の東芝製学校放送用拡声器が所蔵されている。

マツダ学校放送用B型放声装置 TA-1078型 東京芝浦電気(株) 1948年

  

TUBES: 6A7 6C6 6ZDH3 6C6 6C6 6C6 42 42 42 5Z3 セレン(フィールド用)

学放二号型に相当する出力15W の学校放送用拡声装置。学放二号は76ドライブの807p-pだが、この機種は、初段6C6、42ドライブの42p-pのパワーアンプを備える。学放型受信機がフィールドエキサイタに整流管を使うのに対し、この機種はセレン整流器を使用している。

本機は、真空管などが欠落した状態で電気店の倉庫から発見された。未使用品と思われる。
(所蔵No.46025)

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マツダ携帯型レコードプレーヤ KS-1110型 東京芝浦電気(株) 1948年
  
 マツダ学校用拡声装置に付属していた携帯型のレコードプレーヤ。

本機は、新品未使用と思われるが、ピックアップのユニットが失われている。
(所蔵No.44015)
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認定を受けた学放型受信機は、わずか4機種で、最後に認定を受けたのは下記に示すナショナルの製品だった。

ナショナル K-104型(放送協会認定第13014号) 拡声装置 807p-p 8球スーパー 松下電器産業(株) 1948-51年

正価79,907円(認定時)、62,100円(1951年)

   


銘板と出力端子(後期型)


K 104型の広告 (6)

TUBES: 6A7 6D6 6C6 75 76 807 807 5Z3 (初期型)、6WC5 6D6 6C6 6ZDH3/75 76 807(A) 807(A) 5Z3 (後期型)
寸法:H23XW50XD25(cm), 重量:17kg

学放三号型に相当する出力30Wの可搬型拡声装置。初期型は6A7、75を使用していたが、6WC5、6ZDH3に改良された。電力事情の悪い時代に設計された機種らしく、6段の電源電圧切替スイッチと電圧計を備える。ラジオ部はスーパー級国民型受信機規格C級に相当する中波受信機である。このくらいのアンプであれば、マグネチック25本、ダイナミック2本、トランペット2本を同時に駆動できた。教室のスピーカがマグネチックであれば、かなりの規模の学校まで対応できた。

この機種は1948年12月10日に放送協会認定を取得した。ほぼ同時期の1948年12月6日に、ラジオ部が逓信省型式試験第202号に合格している。1950年には文部省教育施設部大阪出張所斡旋(文大第117号)を得て、主に関西地区の学校放送向けに教育委員会を通じて斡旋販売された。(7)。1951年には文部省科学教具委員会、小、中高校、大学用具適当決定第623号に選定された。

この機種は長く作られたため、1950年頃に周波数が535-1605kcに変更された。また、社名から「無線製造所」がなくなったため、パネルの社名表記が変更されている。

(Collection No.46033: Later model, No.46040: Early model)

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ナショナル GR-7 携帯型レコードプレーヤ 松下電器産業(株) 1951年頃
  
ナショナルK-104型増幅器と組み合わされたと考えられる携帯型レコードプレーヤ。SPレコード専用で、戦前から定評のある#250A型モータを採用している。もちろんAC100Vの電源が必要である。このプレーヤは、長野県飯綱町の三水第二小学校で使用されていたもの。現在同校は廃校となり、地域活性化拠点「いいづなコネクトEAST」となっている。

(所蔵No.44026)

シャープ 型番不明 スピーカ 早川電機工業(株) 1950年
中学校の教室に取り付けられた全校放送設備用のスピーカ。高い位置に取り付けられても見えるように大きなマークが取り付けられている。6.5”のパーマネント・ダイナミック用だが、1950年代後半に三洋のユニットにに交換されている。幅の広い位置に飾りネジが付いていることから、マグネチック兼用のスピーカーボックスだったようである。

本機は、備品票の表記から国府村立国分中学校に設置されていたことがわかる。国府村はかつては全国にあったが、現在は多くが市町村合併で存在しない。このためどこの国府村のものかは特定できない。

(所蔵No.10100)
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学校放送の発展

1950年、放送教育の活用に関する研究を行っていた各地の研究会の全国組織として、放送教育研究会全国連盟(全放連)が設立された。研究会の活動は、受信機の技術講習、聴取指導研究、ローカル放送への協力といった教育者らしい内容が主なものだが、まだ物資が乏しい時代を反映して、受信機および部品購入の斡旋や、真空管の配給割り当てといった研究会らしからぬ内容も含まれている。役員は全て教職員からなる団体で、全放連はその後、視聴覚機材の研究活動をNHKなどとともに積極的に行い、放送装置や教室用スピーカ、テレビ機材などは「全放連規格」品が主に採用されるようになる。

1950年からは、小、中、高等学校用のラジオ、拡声装置に対する物品税が免税となった。1952年4月の文部省の機構改革によって視聴覚教育課が新設され、スライド、映画、音楽教材などとともに放送教育を専門に取り扱う部署ができた。同年には文部省から「視聴覚教材の手引き」および「視聴覚教材の設備」という手引書が刊行された。これにより、望ましい全校式放送設備、テープレコーダ、ラジオなどの基準が定められた。これにより、放送室を備えた全校放送設備、テープレコーダを備えた設備が目標とされた。1952年から、教育放送の時間数の限界から、教育放送が全面的に第2放送に移行することになった。

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僻地と都会の教育格差

1958年の文部省の調査によると、僻地学校の指定を受けた学校が7,992校、この条件に準ずる学校を含めると1万を超える学校が交通が不便でインフラが不十分な地域にあり、情報から隔絶されていた(1)。音楽などの文化に触れる機会も少なく、学校放送や視聴覚教育の充実が求められていた。放送室を備えることが普通になっていった都会との学校とは大きな格差があったが、熱心な教師は自ら視聴覚教育の設備を用意し、僻地の学校教育を充実させていった。その実例を次に示す。

OCEAN 5球スーパー付3スピード卓上電蓄 手製 1955年頃
  
TUBES: 6WC5-6D6-6ZDH3A-42-80-6E5 , 6.5" Permanent Dynamic Speaker (Encore P-8B型)

発売されたばかりのLP対応の3スピードレコードプレーヤーユニット(ナショナルRU-36型)を使用した卓上電蓄。プレーヤーボードをスプリングでフローティングとする機構が導入されている。専門メーカのシャーシ付きキャビネットを利用して組み立てられている。OCEANはキャビネットのブランドである。デザインは当時の最新のものだが、ST管とSP用のモータが組み込めるサイズになっている。1950年代前半、このクラスの卓上電蓄のメーカ品は、物品税率が高かったために、月給が1万円もしない頃に4万円もしていた。部品を集めて組み立てれば半額以下で実現できたので、電蓄の大半は自作品だった。その後、所得の向上とともにハイファイブームが訪れ、物品税も引き下げられ、3万以下で卓上電蓄が大手メーカから発売されるようになると、キットや自作の電蓄は減少してくる。本機は、ちょうどその自作が主流であった時代の最後のものである。

(所蔵 No.m42010) 栃木県、本郷様寄贈
この電蓄については寄贈者より製作者やその経緯が伝えられている。この電蓄は、小学校教師の私物であったが、那須の山間部の学校に赴任したところ、ピアノやレコードプレーヤなどがなく、この電蓄を学校に持ち込んで体育館のステージの隅に設置し、音楽鑑賞やダンス指導などに長年使用したものとのことである。それでもこの学校には電気が来ていたからまだ良かったが、電気が来ていない僻地に自費で水力発電機を設置し、電気を通すところから始めた僻地教育のパイオニアとなった熱心な教師たちの努力があった。

NHKは1954年度から各中央放送局ごとに3校の僻地校に放送教育の研究委嘱の名目で1校当たり2万円の研究費を支給した。続いて1955年から5か年計画として、放送開始20周年記念行事として、僻地教育振興法が適用される地域の無電灯学校に対して毎年200台の電池式ラジオの贈呈が実施され、1959年に全国976の無電灯学校にラジオが行き渡った(1)。電気の無い学校には電池式のセットが贈られた。1955年には電波技術協会の主導で真空管式の学校用電池式受信機が試作され、各地の学校で使われたが、すぐにトランジスタラジオの時代になり、主にトランジスタラジオが無電化地域の学校に配布された。1955年には学校へのラジオの普及率は90%を超えている。

教育放送の効果は、積極性、理解力の向上などが、特に僻地教育について顕著に見られた。今でこそどこへ行っても同じ風景が見える画一化が批判され、伝統文化、方言の保存などが叫ばれ、都会の文化や流行を拡散する事が批判されているが、当時はそれ以前の問題だったことを理解しなければならないだろう。

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学校放送用設備

次にこの時代のアンプ以外の放送設備を紹介する。

ナショナル・スイッチボード SB-102型 / ダイナミックマイクDM-1型 松下電器産業(株) 1951-57年
実際に中学校で使用されていたスイッチボックスとダイナミックマイク。スイッチボックスは拡声装置のスピーカ出力をつないで使用する。正面のスナップスイッチを上げると、その回路のスピーカだけに放送を流すことができる。この例では、1年から3年の各学年と、特別教室/廊下の4系統で使用していたようである。正面パネルにはモニタースピーカとモニター用ボリュームが付けられている。この装置は、ナショナルK-106型拡声装置を組み合わせて使用されていたことが確認されている。先に紹介したK-104型K-101B型も同時代のセットであり、これらの機種と組み合わせることも可能である。スイッチの配線は、システムにあわせて注文で変更することができた(8)。スイッチを20個備えたSB-202型も用意されていた。

(所蔵No.46030/54001)

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ナショナル・レピータ DX22PB型 松下電器産業(株) 1959年
 
メインアンプから離れた場所で複数のマイクやレコードプレーヤなどを運用するためのポータブルミキサーである。ダイナミックマイク(600Ω)2系統、クリスタルマイク2系統、ピックアップ、テープ再生入力の6つの入力があり、正面パネルのボリュームでミキシングできる。真空管式のためAC電源を引く必要があるが、校庭での運動会や朝礼などの行事で使用された。このモデルとしては後期の製品で、1960年代に入るとトランジスタ化されたCF-402型にモデルチェンジされた。

本機はつまみが1個交換されている。また、パイロットランプのカバーが失われている。
(所蔵No.46034)

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教室用スピーカ メーカ不明 (左:1940年代、右:1950年頃)

  

全校式放送設備を備えた学校の教室に設置されていたスピーカの例。左は戦前のデザイン。右は戦後のもの。左はマグネチック・スピーカ用、右は6.5インチのダイナミックも取り付けられるサイズになっている。各教室で、ラジオ放送を聴く場合は、教室用スピーカに、スイッチとボリュームが付いたものが使われた。これらのスピーカは箱が小さく、音は悪かったため、全校式放送装置の評判を落としていた。

(所蔵番号 左:10010、右:10011)

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通信教育の拡充

高等学校の通信教育は1955年の文部省通達により拡充され、教育の機会均等が図られた。1958年4月には学校法人東海大学に対してFM放送実験局の予備免許が交付され、JS2AOのコールサインで同年12月26日に開局した。最初の民間放送のFM局であり、教育放送を柱の一つとしたFM東海(現東京FM)の始まりである。周波数は86.5Mcで、渋谷区富ヶ谷の東海大学校舎屋上のアンテナから送信された。1960年3月にはFM東海に実用化試験局の予備免許が交付されたが、NHK、FM東海ともに近接しているNHKテレビ(1チャンネル)音声への妨害が問題となり、FM東海の実用化試験局(JS2H)開局に当たって周波数が84.5Mcに変更された。FM東海は、高音質放送だけでなく、通信教育に力を入れていた。このため、HI-Fi用のFMチューナだけでなく、普及型のFMラジオが製作された。

トリオ AF-250 ”シンフォネット”3バンドトランスレススーパー 1961年 春日無線工業(株) 7,950円

 

放送開始当初、FM受信機は高音質という特性から、Hi-Fi装置向けのチューナや、大型ラジオが大半で、高価であった。FM東海では通信高校講座を放送していたが、このような教育放送の受信には高性能な受信機は必要なく、受講者の経済力からいっても、より安価な受信機が求められていた。本機は初期の普及型FM受信機で、17EW8-12BE6-12BA6-12BA6-12AV6-30A5の配列で、検波と整流にはダイオードが使われている。FMのバンドは初期の80-90Mc、このほかにBC:535-1605kc、SW:3.8-12Mcが受信できる。\7,950という価格は少し中級の2バンドスーパー並で、非常に安価である。

他の大手メーカではこの頃、これほど低価格のFMラジオはない。FMの先駆者、トリオらしいセットである。逆に、オーディオ機器や無線機中心の同社にあって家庭用ラジオに進出した最初のものである。
掲載誌:ラジオ技術1961年4月
(所蔵No.11074)

 1962年には、通信制の「学校法人日本放送協会学園(NHK学園)」が設立され、通信制高校および生涯学習講座を送り続けている。

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テレビ教育放送の始まり

1953年のテレビ放送開始直後から、テレビの教育放送への応答が検討され、実験校による研究が始まった。初期は各学校に1台だけであったが、1955年にはテレビを利用する学校は全国で1,000校を超えた。1957年には教育専門局の設置が認められ、NHK教育テレビジョンと、民放の日本教育テレビジョン(NET:現在のテレビ朝日)が開局した。民間の教育局は、この後東京12チャンネルが開局したが、教育放送を商業的に継続することは難しく、のちに専門局から通常の放送局に移行した。民間の教育局としては、東海大学が母体となるFM東京(現東京FM)が放送を継続したが、現在はディジタル放送に移行し、アナログの放送帯の中で教育放送を継続しているのはNHK第二のみである。

1959年4月から1960年3月まで栃木県塩谷郡栗山村土呂部分校に試験的にテレビを設置して行われた調査は、ドキュメンタリー「村の分校の記録」としてまとめられ、高い評価を得てテレビ放送の教育的効果を大いに広めることになった。

1959年には小中学校には2学級に1台の受像機設置が推奨された(1)。1958年には放送教育研究会全国連盟(全放連)により、無線通信機械工業会の協力を受けて、全放連型教育テレビ受像機が供給され、学校にテレビが普及していった。全放連型テレビは、家庭用のテレビが14インチブラウン管が主流だったのに対し、17インチのブラウン管を備え、ブラウン管を保護するための扉の付いた仕様になっていた。価格は免税で1台6万円とされた。これにより1960年には小学校の51%、中学校の37%にテレビが設置された。

次に初期の全放連型テレビの例を示す。広く普及した八欧電機のもので、19型の親テレビ1台に40台の子テレビ(17型)を接続することができた。教室の高い位置に設置するために、ブラウン管が下向きに傾斜させて取り付けてある。このモデルには、子テレビにもチューナが付いているが、子テレビにはチューナが無いモデルも多かった。

 
ゼネラル19T-140型、全放連認定親子テレビ、八欧電機(株) (「放送教育」1964年6月号広告)


次に示すカタログは、少し後の時代の全放連型テレビで、当初の規格より豪華だが、低価格になっている。

  
ビクターの全放連型教育用テレビ(1966年、「ビクター製品のしおり」より)

学校用のテレビは、職員室にチューナを備えた親機を置き、各教室にモニター機能のみの子テレビを置く、親子式のシステムが導入された。テレビのシステムは学校放送システムとは独立していることが多い。1960年代後半には、白黒テレビではあったが、各教室に1台のテレビを備える学校が増えていった。

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教育用ラジオ受信機のその後

全校式のラジオ受信設備は、音質が悪いという定評があったが、マグネチックスピーカがパーマネント・ダイナミックに更新されるとともに改善されていった。多くのの全校式設備では、スピーカのコントロールを教室で行えないシステムが主流だったため、音響装置にラジオが付いていてもラジオ番組を特定の教室で聴取するのは不可能である。このため、全校式の設備がある学校でも学校放送の聴取には各個式の設備を使う学校も多かった。

次に、教育用に製造されたラジオセットを示す。

ビクター 5A-245 日本放送教育協会推奨スクールラジオ 2バンド5球スーパー 1961-65年 5,400円 (1961年度教育用特別価格)

  

  

TUBES: 12BE6-12BA6-12AV6-30A5-35W4

学校放送用の5球スーパー。回路はごく普通のものだが、録音出力、外部スピーカ端子を備える点が家庭用のセットと異なる。家庭用のセットよりスピーカが大きく、キャビネットも分厚く、丈夫に作られている。学校用テレビがまだ普及していない1960年代初めに発売された。教育用として、非常に安い価格が付けられている。

本機は実際に小学校で使われていたらしく、裏蓋に購入年と学級名が記入されている。本機が導入された昭和40年(1965年)頃には、都会を中心にテレビによる教育放送が普及してきた時代である。このセットは、真空管ラジオとしても最後期のものであり、ラジオが教育放送の中心であった最後の時代のものでもある。

ラジオによる学校放送はその後主流ではなくなり、ラジオの教育放送は語学講座や補習など、個人向けの番組中心となった。
(所蔵No.11642)

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全放連型音響設備

1959年には全放連一説研究委員会が設置され、NHKの協力のもと、教室の音響性能の改善が検討された。この中で教室用のスピーカの仕様が検討され、16cmフルレンジユニットを使用した放送教育用受信施設規定(ERS) A 001 に規定され、1号型スピーカとして広く利用された。

 イーストン教室用スピーカ 東京音響(株) 1962年頃 
 
全放連がNHKの協力を得て開発した教室用のスピーカーボックス。16cmのフルレンジユニットに対して十分に大きなキャビネットとすることで音質を改善している。箱が小さな従来のスピーカよりかなり大きく、このスピーカによって、「音の悪い全校式システム」といわれることはなくなった。全放連規格では幅45㎝だが、この箱は55cmもある。このタイプのスピーカは現在でも各社から発売されていて、多くの学校で幅広く使われている。

(所蔵No.10071)

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放送室の音響設備も全放連規格による製品が導入され、メーカが異なっても似た構造のものであった。
次に、1963年の学校放送装置のカタログ(「ビクター製品のしおり」よりを示す。

  
全放連型Hi-Fi音響装置(左)、全放連規格案ユニット式学校用音響装置(中)(右)

1963年頃の全放連型コンソールは、テープレコーダもビルトインした業務用コンソールと変わらない本格的なものだった。ラジオ部は、このタイプでは短波付オールウェーブだが1966年にはFM付になっている。右のユニット型音響装置については、ユニット型のアンプ部については継続して製造されたが、デスク型音響装置は1966年のカタログでは落とされている。この時代になると、スタジオを持った本格的な放送室を備える学校が増えてきたため、事務机を改造したような簡易型装置は規格化されなかったものと思われる。学校の規模により設備は異なるが、放送室のコンソールからは、各教室のスピーカと、校庭に向けたトランペットスピーカに送出することができた。

このほかに、体育館専用の簡易型放送設備、屋外などで使用する携帯用ミキサーやワイヤレスマイク、携帯用アンプ、ポータブルレコードプレーヤやポータブルテープレコーダなどを備えることが多かった。また、体育指導や屋外活動での簡単な音響設備として、電池式ハンドマイクも広く用いられた。

卓上型音響装置 パナアンプ60R WA-605型 松下通信工業(株) 1967年頃
 
東京都練馬区の公立中学校で使われていた学校放送用アンプ。全真空管式で6CA7p-pのファイナルで定格出力60Wである。AMチューナを備え、スピーカは5系統の切替および一斉放送ができる。マイク、テープレコーダ、ピックアップおよびチャイムを接続できる。都会の大規模校では放送室にはコンソールを備え、このようなアンプはサブシステムとして体育館や職員室などに設置されることが多かった。

本機は、つまみの一部および真空管が失われている。

(所蔵No.46031)

ナショナル・レピータ CF-402型/専用交流電源CF-403型 松下通信工業(株) 1960年頃 26,500円
 
使用トランジスタ:OC-71 X9 , OC-72 X1

運動会など、メインのアンプから離れた場所で運用するときに使われた小型のミキサーである。50年代のDX22PB型をトランジスタ化して小型化したもので、単一電池4本で約250時間動作させられる。また、背面右側の電池ケースを、本機のように専用の交流電源CF-403型と交換すると、AC100Vも使用可能であった。ダイナミックマイク(600Ω)2本、クリスタルマイク(100kΩ)2本、ピックアップ、テープレコーダ各1台を接続してミキシングすることができた。入出力のコネクタやパネルの配列などは、録音出力が追加された他は旧機種と互換性が保たれている。ダイナミックマイク専用のCF-401型も用意されていた。
(所蔵No.46032)

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学校放送の運用

テレビが全国で聴取できるようになると、教育放送の活用はテレビが中心となり、ラジオ放送が使われることは少なくなった。学校の全校式放送設備は、ラジオを聴取するための放送聴取設備としてではなく校内放送設備として活用された。「放送」の意味は、ラジオ放送から校内放送に意味が変わっていった。

ここで紹介する校内放送の運用は1960年代後半から70年代にかけての東京都内の事例を中心にまとめたもので、地域による差異がかなりあったことはあらかじめお断りしておく次第である。学校放送は、教育放送の聴取は教師がカリキュラムに従って実施していたが、定時の校内放送の「業務」は、生徒(小学校の場合高学年)からなる「放送部員」が担当した。朝礼の際のマイクセッティング、登下校時のアナウンスや音楽送出、運動会など行事の際の放送などを生徒が担当した。

中学、高等学校になると、定時放送の業務以外に昼休みに流す「番組」制作が放送部の大きな活動となった。放送を担当する生徒の技術向上を目的として、1954年から全放連とNHKが主催する「NHK杯全国高校放送コンテスト」が開催され、アナウンス、朗読、番組制作などの部門で競われている。中学校部門はかなり後になって1984年からNHK杯全国中学校放送コンテストが始まった。このほかに、民放や企業、公共団体などが募集する番組コンテストやCMコンテストがあり、多数の中学、高校が参加している。学校によってはテレビスタジオを置いて、生徒が制作するテレビ番組を放送することもある。

ラジオの教育放送は通信教育の高等学校講座や成人向けの語学番組、受験講座などが中心となる形に変わってきたが、現在でも幅広く活用されている。

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 参考文献

(1) 日本放送協会編『学校放送25年の歩み』 ((財)日本放送教育協会 1960年)
(2) 柿崎守彦(日本放送協会受信機部) 「学校放送受信機の現状」 『電波科学』復刊1号(日本放送出版協会 1947年)
(3) 柿崎守彦(日本放送協会受信機部) 「学校放送受信機の解説」 『電波科学』復刊2号(日本放送出版協会 1947年)
(4) 川添重義他「トム71型学校放送受信機」 『電波科学』復刊4号 (日本放送出版協会 1947年)
(5) 川添重義他「807 AB2級プッシュプル30W学放3号型拡声装置」 『電波科学』 昭和23年3月号(日本放送出版協会 1948年)
(6) 『学校放送』第6号 (日本放送協会 1950年)
(7) 『ナショナルショップ』昭和25年4月号 (松下電器産業(株) 1950年)
(8) 『ナショナルショップ』昭和26年11月号 (松下電器産業(株) 1951年)
(9) 川添重義、岡田忠久「トム71型学校放送受信機」 『電波科学』復刊4号(日本放送出版協会 1947年)
(10) 木名瀬松壽 岡田忠久『学校放送用拡声装置』 (日本放送出版協会 1949年)


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