日本ラジオ博物館

Japan Radio Museum

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ラジオ共同聴取設備
Early Community Recieving Facilities

1934-44


CONTENTS

農山村部へのラジオ普及の問題点

共同聴取設備試験の実施

共同聴取設備使用規約の制定

岩下式共同聴取

共同聴取の実施にむけて

戦時下の共同聴取

参考文献

注)本稿は主に「日本無線史」第八巻の記述に基づいた

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農山村部へのラジオ普及の問題点

昭和初期、ラジオの交流化と共に聴取者は激増したが、都市部が中心であり、農山村部での普及率は低かった。
この理由としては、

 ・電気が来ていない、また、来ていても昼間送電がない地域が多かった。
 ・農山村部は電波が弱く、高性能な受信機を必要とするが、高価な受信機を買えるだけの経済力がなかった。

点が挙げられる。
このため、放送協会は1934年12月の理事会において、親受信機に戸別に設置した多数のスピーカを有線で接続し、音声信号を専用の電線で伝送し、地域内の住民が共同で聴取する方式の推進を決議した。このような方式は、当時ヨーロッパ、ソ連で実施されていた。共同聴取施設は放送協会が費用を負担して設置、管理し、割安な料金で提供するというものであった。

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共同聴取設備試験の実施

放送協会では技術研究所での試験の後、1935年に全国32ヶ所の農山村(総加入数956)に施設され、1936年1月1日から3ヶ月間にわたって技術、コストなどの調査、研究が行われた(12)。親受信機は学校、役場などに設置され、放送時間中は常に通電された。加入者数に応じて何種類か作られたが、その一つの回路図を下図に示す。58-57-56-2A5pp-80の高一付受信機である。二重放送用には親受信機を2台使用した。


(ラヂオの日本 1936年4月号より)

伝送線路は、当時の電灯線に近い1.6mm裸線(積雪地帯は2mm)を電柱に架線した。実験では、アース帰線を用いる単線式と二線式、二重放送で帰線を共用する三線式と四線式が使用された。電話の電柱と共用する場合は、ラジオの音声信号の出力が大きいために電話に妨害を与えないため、電話用のケーブルを使うことが考えられていた。実際には電話が引かれているような地域には設置されなかった。屋内への引き込み法と、屋内配線は、電話の配線に準じた方式が採用された。引き込み口には電話用の保安器が設置され、屋内配線との切り分けに1:1のマッチングトランスが引き込み口直後に設置された。

この試験のうち、栃木県足利市では、ラジオの電波も届かない山間地のために、足利市内に出力2-30W程度の中継用小電力放送機(逓信省認定653号型)を設置し、足利郡名草村で共同聴取の実験を実施し、好成績を収めた。ここで使われた共同聴取施設には、有事の際の自動警報器、自動蓄電装置が装備されていた(14)。

当館に、この試験で使用されたスピーカが収蔵されているので紹介する。

 放送協会共同聴取用甲型高声器 (株)早川金属工業研究所(シャープ) 1935年10月

  

   

小型ラジオ程度のキャビネットに9インチ・マグネチックスピーカと、音量調節用アッテネータ(10kΩ)を装備したもの。
壁掛けとテーブル型両用になっている。(回路図は「ラヂオの日本」1936年4月号より)
この他に、二重放送用として切替スイッチを設けた「乙型」があった。

掲載誌:ラヂオの日本 1936年4月号
(所蔵No.10038)

この試験、研究の結果、共同聴取制度を実施することになった。なお、この共同聴取実験はその後も継続して運用され、管轄の放送局から毎月保守状況報告があげられていた。ただし、1939年4月以降は加入者の移動、変更を認めないことになり、聴取廃止のときは設備を撤去することとされた。こうして自然に施設を減らしながら実験を続けることになった。

この試験での共聴施設は農山村部への設置を目的としたものであったが、この実験以前に一部都市部に設置されたものもあった。1934年に竣工した同潤会江戸川アパートに設置されたものがよく知られている。東京では二重放送が実施されていたため、スピーカは上のタイプとは異なり、音量調整の他に第一、第二の切り替えが付いていた。デザインはアパートの内装にあわせたアールデコ風のモダンなものだった。

このほかに九段の野々宮アパートにも二重放送対応のかなり高級な設備が付けられていたという。このような近代的なアパートに設置された共同聴取設備は、地方で行われた放送協会の実験とは別物の民間独自のものである。共同聴取施設には、農山村部の聴取者拡大という目的の他に、当時現れ始めた大都市の鉄筋アパートにおける、近代設備のひとつとして、ラジェータ式暖房や電話とともに取り入れられたという側面もあった。現代でいうなら、高級高層マンションにブロードバンド環境完備というところだろうか。

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共同聴取設備使用規約の制定

放送協会は「日本放送協会無線電話共同聴取設備使用規約」を制定し、共同聴取制度の詳細を決定した。
この規約から内容を紹介すると、

・設備には単式と複式があり、複式では二重放送を切り替えて聴取することができた。
・共同聴取を希望する聴取者は20世帯以上で共同聴取組合を作り、電柱に使用する丸太を提供する。
・設備の建設、設置、維持、管理は全て放送協会が行う。
・施設使用料は組合単位でスピーカ20個を1組として、単式月額7円、複式10円とされた。
・1戸当たり聴取料50銭と使用料単式35銭複式50銭、ただしスピーカが20を超える分は単式30銭、複式45銭。
・この使用料のほかに、電気代(1戸当たり10銭程度)が必要であった。

平均して一聴取者あたりの負担は、月額1円程度となる。ラジオの設備は修理代も含めて全て放送協会持ちであるため、かなり割安であるといえる。

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岩下式共同聴取

1935(昭和10)年、放送協会の実験とは別に、民間で開発された共同聴取装置が特許を取得した。これは岩下章一氏が「岩下式連接ラジオ」として開発したものである。共同聴取方式としては日本初の特許という。親受信機に単線式で各戸のスピーカを接続し、スピーカのスイッチで一定時間親受信機の電源を入れることができるというものである(10)。

岩下氏は電話兼用の「通話式共同聴取ラジオ」も開発した。後の農村有線放送電話そのものである。岩下氏の岩下無線電気商会(国際共立ラジオ研究所の表記もあり)は積極的に実演や紹介を行ったようだが、どのような商品になり、どの程度普及したかは不明であるが、放送協会が共同聴取を実施しようとしたときに岩下氏の特許が問題となった(13)。

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共同聴取の実施にむけて

放送を監督する逓信省では、当初電話の普及を推進していたため有線の共同聴取には反対の声があったが、農山村部への電話の普及が望めないことから、放送協会の試験施設の状況を調査した。

1936年3月、逓信省は電気通信技術委員会に属する「放送網整備委員会」が設置された。

1936年4月1日から、前年に試験的に設置された32ヶ所に認可が与えられ、正式に実施することになった。放送協会が設備負担の予算として10万戸分200万円の予算が組まれた(11)。

1937年5月、放送網整備委員会は通信技術委員会に検討結果を報告し、次の詳細を決定した。

 ・電話線がある場合は、この電柱に添架することが認められた。
 ・共同聴取設備は、人口稠密でない地域、また、人口2万以下で電界強度5mV/m以下の地域に施設することが適当とされた。
  また、共聴地域内に1割の既設聴取者がいる地域には設置せず、一受信機あたりの聴取者数は半径2キロ以内で100程度までとされた。

共同聴取には、ラジオの販売と電気料金の徴収に影響があることから、電力会社との対立が発生した。このため、電力会社の意見も考慮して上記の条件が設定された。また、加入者の共同聴取から単独聴取への移行はいつでもできることになった。共同聴取施設の電灯料金については電気普及会受信機普及委員会で審議された。受信機の規定の電気料金の他に、スピーカまでの施設を電灯会社がサービスする場合は、スピーカ毎に若干のスピーカ料を付加できるという草案が作られた。この料金は直接スピーカから聴取する需要家ではなく、共同聴取組合と契約することになっていた(15)。

また、ちょうど国防受信機が発売され、交直両用受信機を昼間送電のない地域に売り込もうとしていたラジオ業界からは、地方でのラジオの販売に影響が出ることから問題視された。このように電力会社やラジオ業界から問題視されたため、10万戸分の予算は計上したが、新たな設置地域については慎重に検討されることになった(11)。

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戦時下の共同聴取

放送協会では新たに「日本放送教会施設、放送無線電話共同聴取設備規定」案を作り、初年度の聴取加入者10万を予定していた。しかし、1937年の日支事変勃発により資材統制が厳しくなり、新たな架線を必要とする共同聴取施設が建設されることはなかった。1939年4月7日、日本放送協会は、技術局長の通達(技第1480号)として、協同聴取実験施設の加入者の移動、変更を認めず、加入者の移転、聴取廃止の場合は設備を撤去する方針を発表し、自然減を計りながら実験を継続することになった(3)。かわりに防空上の理由から既存の電話線、電灯線に高周波でラジオ放送を伝送する有線放送が推進された。

放送協会による施設計画は頓挫したが、農山村では独自に共同聴取設備を作る動きがあった。1939(昭和14)年、新潟県東頚城郡牧村に設立された「池永ラジオ協聴会」が日本最初の民間ラジオ共同聴取施設といわれる(6)。また、北海道上富良野地区の一部で、無電化家庭へのラジオ普及のために1940年に地元有志により計画された共同聴取施設は戦況が悪化した1944年8月に完成した。(詳細は上富良野町郷土をさぐる会機関誌 郷土をさぐる(第3号))。この他に千葉県君津郡亀山村で、1943(昭和18)年頃に、防空監視所と一般家庭に設置した例があった。

戦前、一部の地域で実施されていたラジオ共同聴取は、戦後、電波が弱く、電気が来ていない家を抱える農山村に普及した。その後は電話機能が中心となり、農村有線放送電話として発展した。現在はだいぶ少なくなったが、一部の地域では使用されている。

また、共同聴取による有線放送は、電源を切ることができず、決められた放送しか受信できないという特徴を持つ。このため、旧ソ連や北朝鮮などで一般家庭に広く導入されていた。

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参考文献

1)電波監理委員会編 『日本無線史 第八巻』 (電波監理委員会 1951年)
2)日本放送協会編 『ラジオ年鑑 昭和10年版』 (日本放送出版協会 1935年)
3)『日本放送協会報 第263号』 (日本放送協会 1939年4月7日)
4)『ラヂオの日本』 昭和10年6月号 (日本ラヂオ協会 1935年)
5)『ラヂオの日本』 昭和11年4月号 (日本ラヂオ協会 1936年)
6)坂田謙司 『声の有線メディア史』 (世界思想社 2005年) Amazon.co.jpで購入する
7)『郷土をさぐる(第3号)』 (上富良野町郷土をさぐる会 1983年)
8)文:橋本文隆他 写真:兼平雄樹 『消えゆく同潤会アパート』 (河出書房新社 2003年)
9)『電気普及資料 第2巻第5号』 ((社)電気普及会 1936年5月)
10)「初めて特許になった岩下式共同聴取」 『東京ラヂオ公論 第42号』 (ラヂオ画報社 1935年)
11)「四月一日より実施の共同聴取について」 『ラヂオ公論 第198号』 (ラヂオ画報社 1936年)
12)日本放送協会技術局工務課 「共同聴取の実験実施に就て」『ラヂオ公論 第199号』 (ラヂオ画報社 1936年)
13)「共同聴取制度 更に第二の難関に逢着」 『ラヂオ公論 第203号』 (ラヂオ画報社 1936年)
14)「日本ラジオ界の躍進 好績を収めた二つの試験 小放送機と共同聴取」 『ラヂオ公論 第204号』 (ラヂオ画報社 1936年)
15)「共同聴取の料金算出草案」 『ラヂオ公論 第204号』 (ラヂオ画報社 1936年)

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