日本ラジオ博物館

Japan Radio Museum

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長野県のラジオ(戦前編)

1926-45


CONTENTS

はじめに

放送前史 (NEW)

放送のはじまり (加筆訂正)

Halodyne 5球ニュートロダイン受信機 金萬電気商会 岡谷

長野放送局の開局 (1931年)

長野放送局開局記念鉱石ラジオ 信濃毎日新聞社

長野放送局開局当時のラジオ(1) 松本市

長野放送局開局当時のラジオ(2) 諏訪地域

長野放送局開局当時のラジオ(3) 伊那町

長野放送局開局当時のラジオ(4) 須坂町

松本放送局の開局 (1938年)

長商組合型B 4球再生式受信機 長野ラヂオ商業組合

ナナオラ80型A型 七欧無線電気(株) 1938年 松本市

戦時下の放送とラジオ

放送局型第123号受信機(臨時許容) 七欧無線電気(株) 1942年 原村

戦争の終結と長野県

松本放送局のその後

参考文献

第1展示室HOME


はじめに

ここでは、当館の所在地である長野県の放送の歴史を取り上げる。長野放送局が開局した1931年前後には、多くの地方都市に放送局が設置され、その後各地でラジオの普及が進んだ。本稿は、地元の郷土史というだけでなく、地方都市の放送の歴史の一例として見ていただければと思う。

放送前史

アメリカでラジオ放送が始まると、日本全国で新聞社による放送の送受信実験が始まった。長野県でも1924(大正13)年7月20日、長野測候所と信濃毎日新聞社本社屋上との間で無線電話の公開実験が準備され、新聞紙上で予告されたが、無線電信法に抵触することから、当局より中止を命じられた。正規の実験局の許可を得ていなかったものと思われる。

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放送のはじまり

1925(大正14)年3月1日に東京放送局が東京芝浦から試験放送を開始した。この放送は長野県内では小諸、諏訪などで受信され、放送開始の記事とともに3月2日の新聞に掲載された。さすがに出力が小さいため、昼間の受信は困難であったようである。また、初期の型式証明受信機のみ許可された時代だけあって松本市内では取り締まりが厳しく、自作受信機の使用が禁止されたため初日の受信ができなかったとの記事がある。また、信濃毎日新聞社上田支局に設置した受信機についても許可の関係で本放送から使用とされた。

続いて大阪、名古屋が開局し、日本の放送の歴史が始まった。約1年後には3つの放送局が合同し、日本放送協会が設立され、全国組織となった。放送協会創立当初、長野県は北信地域の上田、南佐久郡、北佐久郡、小県郡が東京を中心とする関東支部に、松本市、諏訪郡、下伊那郡、東筑摩郡、西筑摩郡、南安曇郡が名古屋を中心とする東海支部に属し、同じ県内でも管轄が異なっていた。(1)

この頃、長野県でラジオを聴こうと思ったら東京か名古屋、大阪の放送局を受信するしかなかった。山間地が多い県内の地形の制約もあって、放送局がある都市部のように安価な鉱石受信機を使うことはできず(注)、高価な真空管式受信機と本格的なアンテナがなければラジオを聴くことはできなかった。このため、長野放送局設立までは聴取者数は非常に少なかった。 東京、名古屋、大阪の放送局が合同して日本放送協会が成立した1926(大正15)年9月末の東京の聴取者は19万近かったが、県内の聴取者は、わずか594であった。(3)

(注)昭和初期に、新潟から東京の電波を鉱石受信機で聴取していたという記録がある。当時は電波雑音が少なかったので可能だったのだろうが、相当大きなアンテナを立てても聴けたのは電波状態の良い夜間に限られたと思われる。一般的には鉱石受信機は使えなかったとしてよいだろう。

まだ、東京、大阪、名古屋の3局が独立していた頃から、各地から地方局設置の出願が殺到した。信濃毎日新聞1925年5月31日付には、年度中の長野局認可内定、出願者による財団法人設置の協議開始という記事が掲載されている。結果的には日本放送協会の支部により設立されることになるが、この時代は各地方局が独立した財団/社団法人として出願していたようである。

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1927(昭和2)年、新たに東北、中国、九州、北海道支部の新設に伴う定款の改正により、長野県全県が関東支部の管轄となった。当館には、長野放送局開局前に県内で使用された高級受信機が収蔵されている。

Halodyne 5球ニュートロダイン受信機 (金萬電気商会/KANEMAN ELECTRIC Co. 1929年)
 
Halodyne 5球受信機

Halodyne受信機の内部 Halodyne受信機のラベル

放送局のダイヤルの位置を示すメモ アンテナ線とアース線
 TUBES: 201A-201A-201A-112A-112A

長野県諏訪郡岡谷にあった中小メーカ製のニュートロダイン受信機。高周波段にUX-201Aを3本。低周波段にUX-112Aを2本使用する。このセットは、長野県上伊那郡辰野町の旧家に残されていた。奇跡的に当時使われていたままのバッテリーとホーンスピーカ(Omarブランド)が揃っている。セット内部にも修理や破損の痕跡が無く、ほぼ購入当時の状態を維持している。真空管は1929年8月の日付を打ったラベルの付いたサイモトロン製品で揃っている。これがこのセットの製造年であろう。

バッテリーは"A"電池にユアサRA-2型(6V)、"B"電池にGS BK-80型(90/45/22.5V)、"C"電池に4.5V積層乾電池(メーカ不明)を使用する。A電池に鉛電池を使うのは一般的だが、B電池は電流が少なく、比較的長持ちするので乾電池が使われることが多く、このように高価で保守が大変な蓄電池が使われることは少なかった。このセットの場合、部品の入手が不便な地方で使用されていたため、充電可能な鉛蓄電池が使われたのではないかと思われる。

キャビネット側面にはコールサインとダイヤルの位置を示す紙片が貼られている。これを見ると、東京、名古屋、大阪、熊本、仙台、広島、札幌という、当時の大電力局全てが記入されていることがわかる。長野県の山間部の町でこれだけ遠方の局が受信できたことは驚きである。ノイズが少なかったのであろう。

また、本機には、アース線とアンテナ線も付属している。アンテナ線(緑色)は直列にマイカドン(日本無線製)を直列に入れた上で、先端に電球用のプラグが付けられている。つまり、電灯線アンテナとして使っていたということである。アース線(赤)の先端にはフォーンプラグが付けられている。このセットの持ち主の家にはすでに電灯線が来ていたということである。

このラジオが作られた翌年の1930(昭和5)年頃から本格的に交流式受信機の普及が始まる。相当に豊かだったと思われるオーナーは、このセットを改造することもなく仕舞い込み、新型の交流受信機に買い換えたのであろう。電池式受信機時代の最後のセットといえる。
(管理No.11825、委託展示品)

放送開始当初、ラジオはもっとも高速な情報伝達手段であり、最新のハイテク情報機器であった。長野県内でも、特に諏訪地方は生糸の生産、輸出で経済力が高く、また、織機の製造などを通じて高い機械技術を持っていたこともあって、地方にもかかわらず多くのラジオメーカ(実際にはごく小規模なものだったと思われる)が存在していた。生糸の価格は相場に左右される。アメリカでも最初にラジオに飛びついたのは証券業者であったという。高価なラジオを使ってでも、各地の相場などの情報をいち早く入手する必要があったのだろう。

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長野放送局の開局 (1931年) 

日本放送協会の成立によって、全国放送の展開が容易になった。放送協会は聴取者を増やすためにサービスエリアを広げる必要があった。東京、大阪、名古屋の中央放送局の出力増強が計画されるのに続いて仙台、札幌、広島、熊本、金沢に新たな放送局が設置された。これらの大きな放送局は後に各支部の中央放送局と位置づけられるが、これらの局は各逓信局の管轄に合わせて設置されたもので、サービスエリアの拡大に最適な配置ではなかった。

1926(大正15)年10月の基本拡張計画で、どこでも鉱石受信機で放送を受信できる環境を作るという「全国鉱石化」実現のために、中小都市への放送局設置が決定された。長野局もその中に含まれ、送信出力10kWの大出力が予定された。長野県への放送局設置が決まると、長野市、松本市、平野村(現岡谷市)の3者による誘致合戦が起こったが、最終的に長野市に決定した。(9)

しかし、全国鉱石化のために計画されたプランによるサービスエリアは、日本の地形に照らして非現実的であることがわかり、不況により大出力局を多数設置する費用の確保が困難となったこともあって第二期計画において大幅に修正された。これにより1930(昭和5)年度事業計画において全国5箇所に小規模な放送局を設立することが決められた。所在地は長野、静岡、京都、岡山、福岡であり、京都の300Wを除き、送信出力は500Wであった。

1931(昭和6)年3月8日、長野放送局が開局した。開局当初から長野放送局と呼ばれていたが、当初は、正式には「日本放送協会関東支部長野支所」といった。局舎は長野市内城山公園内に設置され、その標高400mは、当時日本一高い場所にある放送局であった。建物は鉄筋コンクリート平屋建てで建坪122.5坪、その大半を送信設備が占め、スタジオはわずか13.2坪のものがひとつあるだけの小さな局だった。大半の番組が東京中央放送局からの中継だったため、この程度の設備で十分間に合ったのである。送信出力は500Wで、送信機は放送協会関東支部で自作したものが設置された。周波数は現在と異なり635kc、コールサインはJONKで、これは今でも変わっていない(2)。

長野放送局外観
開局当時の長野放送局(長野市城山公園) (絵葉書)
テレビ放送開始で手狭となり、1964年に長野放送会館に建て直された。
その後、1998年の長野オリンピック開催に伴い、オリンピック会場に近い長野市若里地区に移転し、現在に至る。
なお、旧放送会館は城山公民館として活用されている。

長野放送局スタジオ
開局当時の長野放送局内スタジオ (絵葉書)
スタジオはこれ一つだった。当時標準的に使われていたライツ型マイクロフォンが見える。
すぐ後ろにピアノが写っているのもスタジオの狭さをうかがわせる。児童合唱の伴奏などに使われたのだろう。

JONK放送記念メダル JONK放送記念メダル(裏)
JONK放送開始を記念して作られたメダル(真鍮製)
表:「放送記念」「JONK」の文字
裏:局舎とアンテナ、善光寺と北信の山並み

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次に示すのは開局記念に作られた鉱石ラジオである。

長野放送局開局記念鉱石ラジオ (日本製 1931年) 信濃毎日新聞社
 
長野放送局開局記念鉱石ラジオ 長野放送局開局記念鉱石ラジオパネル
1931年3月8日の日本放送協会長野放送局(JONK)に併せて、地元の新聞社、信濃毎日新聞社が製作した鉱石受信機。地元に放送局が開局するまでは、東京や名古屋などの遠隔の局を受信するしかなく、高価なラジオが必要で、ラジオの普及の障害となっていた。1931年には、すでに交流式の真空管式受信機が主流となっていたが、安価であることから鉱石ラジオも電波の強い場所では使われていた。このセットは、小諸にあったものというが、開局時のエリアでは小諸での受信には相当に大きなアンテナが必要であったと思われる。

放送局開局に合わせて開催されたラジオ展のキャンペーン期間中の定期購読契約者に贈られたものという。記念品として安価であることと、簡単なラジオで地元の放送を聞くことができるという意味で用意されたものと思われる。このセットは鉱石受信機としては最も簡単なもので、スパイダーコイルのタップを切り替えることで同調を取るタイプである。さすがに不便になったらしく、バリコンが追加されていた。しばらくの間、実用品として使われたようである。

後から追加されたバリコンは当館で取り外した。
(所蔵No.11925)


信濃毎日新聞1931年9月6日社告(国会図書館蔵)

この社告が示す通り、購読者が信濃毎日新聞社経由でラジオ申し込みをしたときに贈呈したものである。放送局開設を支援していた同社らしいキャンペーンである。

この鉱石ラジオが示すように、地元の放送局ができたことで、安価なラジオでも放送が聴けるようになり、県内の聴取者は1926年の593から、全国の聴取者数が100万を突破した1932年3月末には1万2千に近づくまでになった。県内のラジオ世帯普及率は長野放送局開局までは1%であったが、この頃には3%を超えていた。

しかし、放送局が設置された長野市は南北に長い長野県の北部にある。山が多い地形の制約で、安価な真空管式受信機で聴取できるエリアは、長野市を中心に北は中野、飯山、南は本城あたりまでで、東西方向には極端にエリアが狭かった。放送局から50キロ程度離れた松本や軽井沢では、相変わらず高性能な高級受信機が必要な電波の強さであった(3)。

次に紹介するのは、長野放送局が開局したころに松本市で使われたラジオである。

長野放送局開局当時のラジオ(1) 松本市

(高一付5球再生式受信機)
 (1931年頃、日本製) メーカー不明
5球再生式受信機(松本市)

5球再生式受信機の内部
TUBES: 26B 227 226 112A KX-112B (マツダ、エレバム)

長野放送局開局(1931年)時に購入されたものと思われる5球再生式受信機。初期の交流式セットである。

トクヒサの電源トランス、原口のコンデンサなど、国産の一流メーカの部品が使われている。ラジオ商が組み立てたものと思われる。

このセットは永く松本市に残されていた。当初4球再生式として組み立てられたが、感度が不足するためか26Bによる高周波増幅回路を追加している。
(所蔵No.m11003) 長野県松本市 西郷様寄贈

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 長野放送局開局を前に、各地のラジオ商組合で売り出しが行われた。次に紹介するのは、諏訪ラジオ商組合がかかわったエリミネータ受信機である。

 長野放送局開局当時のラジオ(2) 諏訪地域

 5球再生式エリミネータ受信機
  1931年 諏訪ラジオ商組合
5球再生式受信機(諏訪) 内部の料金表
 TUBES: 224 227 226 112A KX-112B (24B 227 26B 12A 12F)

日本独特の2階建てキャビネット下部の、本来バッテリーケースの部分に電源部を組み込んだエリミネータ受信機。使用部品や構造から判断して、電池式セットを改造したものではなく、最初から交流式として組み立てられたと思われる。蓋の裏には諏訪ラジオ商組合の料金表が貼ってある。日付は昭和6年2月となっていて、長野放送局開局直前に行われたキャンペーンで組み立てられたものと思われる。諏訪は放送局が置かれた長野市から離れているため高い感度が必要だった。このため、発売されたばかりの四極管UY-224が採用された。

このセットには昭和6年3月19日申請、30日許可の静岡県磐田郡の住所の私設許可書が残っている。そして、本体内部には昭和9年6月の諏訪電気(株)による検査章が貼ってある。想像でしかないが、諏訪でラジオを組み立て、新年度から静岡県に転居し、昭和9年には諏訪に戻ってきたのではないだろうか。その後、真空管や電源スイッチを交換して戦後まで使われたと思われる。

本機は分解された状態で発見されたため、欠落した部品を補って組み立てなおした。また、正面パネル周囲には、バッテリーケースと同様の額縁があったと思われるが失われている。パネルはベニヤ板だが、右下の部分に剥がれが見られる。
(所蔵No.11A108)

放送局がある長野市から遠い南信地区でもラジオの普及が始まった。ここに紹介するのは伊那の電気店が販売したセットである。

長野放送局開局当時のラジオ(3) 南信地区(伊那町)

シルバーライン 
鉱石検波レフレックス4球エリミネータ受信機 1931年頃 N.Y. Radio Products / 北澤無線電気商会
 

TUBES: 226 226 112A KX-112B (26B-26B-12A-12F), Horfn Speaker (Center)

長野県上伊那郡伊那町(現在の伊那市)にあったラジオ商が販売した中小メーカ製のエリミネータ受信機。放送局から遠く、感度が必要なことから4球鉱石検波レフレックスという珍しい構成になっている。組み合わせられているホーンスピーカは当時ポピュラーだったセンターの製品である。組み合わせた状態で入手したが、本来の組み合わせかどうかは不明である。

(所蔵No.11A120)

もちろん、長野放送局のお膝元の北信地区のラジオも確認されている。

長野放送局開局当時のラジオ(4) 須坂町

4球再生式エリミネータ受信機 塚原ラヂオ店 1931年頃
 

TUBES: 227 226 112A KX-112B (56 226 12A 12F)

須坂芝宮通り(現在の須坂市大字須坂芝宮付近)、塚原ラヂオ店の銘板があるエリミネータ受信機である。地元のラジオ店が組み立てたものと思われる。放送局に近い地域だけあって、低感度の再生検波、低周波2段の構成(後の並四球である。それにしても奇妙なパネルのラジオである。本来は窓付き減速機構付きダイヤルを使用した標準的なデザインだったようだが、同調と再生のツマミが旧式の大型ホットケーキダイヤルに交換されている。この大型ツマミを取り付けるために左のバリコンを高い位置に変更し、中央のバリコンの位置は変更できないため、パネルをダイヤルの形に切って納めている。

ダイヤルツマミに目盛りがついているが、減速機構付きダイヤルにこの形のツマミを取り付けても無意味である。なぜこのようなデザインになってしまったのだろうか。ここからは想像に過ぎないが、発注者はもっと旧式のラジオを持っていたのではないだろうか。新しいデザインの小さなツマミが使いにくく気に入らなかったため、旧式の大きなツマミを付けさせたのではないだろうか。

右側のツマミは近年修理されたものでオリジナルではない。スピーカについては年代は合っているが、本来の組み合わせかどうかは不明である。

(所蔵No. m11147) 長野市、草間様寄贈

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その後もラジオ受信機の低価格化と各地方局の設置により、全国でラジオの普及率は増加した。1934(昭和9)年度末には東京の普及率は50%近くなり、伸びは鈍化していたが、地方の伸び代は大きく、長野県を例に取ると、長野放送局が開局した後にようやく1万を超えた県内の聴取者は、わずか3年後の1934(昭和9)年度末には2万を突破するまでになった。普及率も長野市内に限っていえば25%を超えていた(全県では6%)。

1936(昭和11)年度末には、県内の聴取者は3万を超え、普及率はやっと10%に達した。長野市の普及率は34.1%に達し、これは札幌市や富山市よりわずかに良い高いレベルである。しかし、長野局から離れた松本市の普及率は18.5%、絶対数で2,760と、県全体の10%に満たないレベルにとどまっていた。

1934年の室戸台風の被害は海から遠い長野県内でも大きく、停電により電波が出せなくなった。この事件の反省から、1935(昭和10)年には、長野放送局に非常用自家発電設備が増設された。


1937(昭和12)年頃の長野放送局を写した絵葉書
右端に、自家発電機を収めた鉄筋コンクリートの小屋が増築されている。

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松本放送局の開局 (1938年)

1938(昭和13)年度に実施された加入者使用受信機調査によると、長野県では5球以上の高級受信機の割合が、全国平均の2.9%に対して6.2%と飛びぬけて多く、地形によるハンデを物語っている。ラジオの普及には、より安価な受信機で聴取可能な地域を増やすため、放送局の増設が必要とされた。

県内でも北寄りに設置された長野放送局のサービスエリアを改善するために、1938(昭和13)年12月24日に松本放送局が開局した。局舎は60坪ほどの鉄筋コンクリート平屋建ての小さなもので、同時期に開局した釧路、弘前放送局とほとんど同じレイアウトだった。


松本放送局開局記念絵葉書
松本城と日本アルプスのイラストと放送局の写真を組み合わせている。
戦前の松本放送局の写真は少なく、貴重である。


松本放送局の内部を描いた絵葉書、左がただ一つの小さなスタジオ、右がスタジオの隣にあった放送機室である。
スタジオにはアナウンス用のテーブルとライツ型マイクが見える。左のテーブルには卓上電蓄が乗っている。
スタジオの右側には暖房用のラジェーターとソファが見える。ソファは出演者用だろうか?
右上には見学者向けに用意された記念スタンプが押されている。開局直後の1939( 昭和14)年1月の日付がある。

所在地は松本市大字笹部西田(当時、現在の笹部4丁目)であった。出力は長野局と同じ500W、周波数は新たに960kcが割り当てられ、長野局は1040kcになった。コールサインはJOSGであった。松本局の開局により松本市の半径25kmの範囲が安価な受信機で受信可能なエリアとなった。ここには穂高、下諏訪、青木などの町が含まれる。中級受信機を使えば伊那や木曽福島もエリアに入った(4)。

ラジオ受信機は安価になり、販売競争も熾烈になっていった。次に紹介するのは長野県のラジオ商組合が作らせたセットである。 

長商組合型B  4球再生式受信機 長野ラヂオ商業組合 1937年頃
 

 TUBES: 24B 26B 12A 12F

長野県のラジオ商組合が売出しなどのために特注で作らせたセット。ごく普通の並四球受信機である。現代で言えばプライベートブランド製品ということである。歳末大売出しなどのときにこのようなセットを目玉商品とすることが良く行われた。一流メーカが製造することもあったが、この製品は無名メーカの製品のようである。
(所蔵No.11853)

以上はラジオ店の取り組みだが、当時のラジオ販売には電力会社(電灯会社)の役割が大きかった。市街地にしかないラジオ店の営業力が限られるのに対して、電力会社は設備の維持管理要員の駐在所として村々にまで「散宿所」と呼ばれる拠点の設置が義務付けられていた。これはのちに営業所となったが、地方の小規模な施設は散宿所の名称が残った。また、電灯会社は電灯線に電気器具を接続するために検査を行う権限を持っていた。電灯会社は、この強力な営業所網と許認可権限を活用してラジオの販売を実施した。

次に紹介するのは長野県の電灯会社の安曇支社が松本放送局開局時に実施した特売のチラシである。

 
チラシ 「松本放送局開局記念 優秀ラヂオ受信機特価大売り出し」
信州電気(株)安曇支社 1938(昭和13)年

当時の関東系の有力メーカ、七欧無線電気のラジオを対象としている。安価な国策型は一括払いでも13%引き程度だが、高級機のほうは25%引きである。また、(電気料金と一緒に集金される)分割払いや取り付け工事費、聴取許可申込料の会社負担など、現代の携帯電話の販売にも通じる特典を設けていた。このような力を背景にした売り込みはラジオ店との軋轢を生むことになった。

ナナオラ80型A型 七欧無線電気(株) 1938年 55.00円 
 
TUBES: 24B-24B-47B-12F , TRF, Magnetic Speaker

松本市内で使われていたラジオ。松本放送局開局を機に買い替えたものと思われる。このラジオを使っていた家は、松本放送局のアンテナが見えるような場所にあるので、このような高周波1段でなくても問題ないが、開局前に購入したので長野局を受信するために感度の良い機種にしたのだろう。長野県内からはナナオラのラジオが見つかることが多い。上のポスターにあるように、電灯会社がナナオラを中心に販売していたためと思われる。ポスターにある80B型はこの80A型のキャビネット違いのバリエーションである。

(所蔵No. m11123) 松本市、宮澤様提供

1938(昭和13)年度、長野市の聴取者数の伸びは対前年比で14.2%に過ぎなかったが、松本市では59.4%の急激な増加を示し、普及率が前年の20%から一気に30%に達した。1938(昭和13)年度は、日中戦争の激化によって国民生活に影響が出始め、全国レベルで聴取加入の増加にストップがかかった。しかし、長野県では松本局開設の効果もあって順調に増加を続け、57,000を超え、普及率は17.3%に達した。(4)

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戦時下の放送とラジオ

戦争の激化によっていわゆる軍需景気が起こり、戦争のニュースへの関心が高まったこともあってラジオの普及はいっそう進んだ。1939(昭和14)年度末には、長野県のラジオ聴取者数は85,757を数え、49%の急増ぶりを示した。長野、松本市に限ってみれば増加率は20%程度に過ぎず、ラジオが都市部にある程度行き渡り、郡部に普及が進んだことを示している(5)。県内の新たに加入した聴取者のラジオ受信機の統計を見ると、一般的な4球受信機が倍増したことで、5球以上の高級受信機のシェアは相対的に下がった。

1939年11月から3月にかけて、官民揚げてのラジオ普及運動が繰り広げられ、これに全国のラジオ商組合が参加し、南信ラジオ小売商業組合は、1939年10月1日と1940年1月31日の2回の売り出しで1,116台の新規聴取者を獲得した。同時期の長野ラジオ商組合の売出しによる新規聴取者の獲得数は351件であり、南信地域に開拓の余地があったことを示している。(6)また、当時は電力会社(当時の呼称は供電会社)のラジオ販売の力が強く、長野県内の中央電力、信州電気、伊那電気鉄道、長野電気、木曽川電力の6社が1939年中に各本支社、営業所で年2-4回実施した売出しで約2万件の新規加入を獲得している。これは長野県全体の新規加入者の約80%にあたる。

1941(昭和16)年3月末には、県内の聴取者数は10万を突破し、116,933に達した。都市別では放送局所在地の長野市、松本市だけでなく、上田、岡谷、飯田といった南信の各都市も統計に載るようになってきた(6)。

1941年に入ると放送局型123号受信機が発売されたが、放送局型受信機は割高なこともあってすぐには普及せず、1941年中は宣伝キャンペーンが行われた。しかし、1941年はじめまで行われたようなラジオ普及のための売り出しはできなくなった。次に紹介するのは伊那の供電会社が配布したチラシである。

 
局型受信機の御勧め 伊那電気鉄道(株) 1941年

伊那電気鉄道(株)(注)が1941年10月から11月に実施したキャンペーンのチラシである。下伊那郡河野村にあった宮澤医院に配布されたもの。すでに公定価格が実施されているため値引きはないが、取り付け工事費とアース工事費が無料、ラジオ本体の6か月保証の特典が与えられている。チラシには時代を反映して戦闘風景が描かれているが、太平洋戦争開戦前なので、中国戦線と思われる地上戦の絵である。

(注)伊那電気鉄道(株)
1907(明治40)年に設立された鉄道会社。大正時代に地元の電灯会社を統合して電力事業も運営していた。電力事業はこのチラシが作られた半年後の1942(昭和17)年4月に戦時統合により中部配電(現中部電力)に譲渡された。鉄道事業も翌1943年に国有化され、会社は解散した。路線は現在のJR飯田線である。

1941年12月8日の太平洋戦争開戦以降も、ラジオの聴取者は増加を続け、1942年には全国でついに650万を突破した。このときの松本市の普及率は65%を超えていた。絶対数では大きな差があるが、普及率の点では横浜市と変わらない数字である(7)。この頃にはラジオの生産、供給は統制され、放送局型受信機が主流となっていた。次に紹介するのは、戦時下、諏訪郡原村で使われた放送局型受信機である。

放送局型第123号受信機(臨時許容) 七欧無線電気(株) (認証番号12306) (1942年10月) 公61.40円
 

 
戦前期の大手メーカ、七欧無線の放送局型受信機(臨時許容型)。当時最も普及したタイプのセットである。

裏蓋に諏訪郡原村の所有者の名前が墨で記入されている。

 (所蔵No.11573)

長野県内では、1942(昭和17)年8月15日に飯田放送局が開局している。出力わずか50Wの小さな放送局であった。防空目的で全国のラジオ周波数を860kcに統一する同一周波数放送による受信状況悪化対策として各地に設けられた小規模局のひとつと思われる。

1942(昭和17)年まで順調に増加したラジオ聴取者も、戦局の悪化に従ってラジオ受信機および部品の供給が延びず、これ以降増加の割合が鈍ってくる。1944(昭和19)年から45(昭和20)年にかけては、各都市が空襲にあったことで大量の廃止を生じ、170万件あまりも減少した。特に東京、大阪などの大都市が戦災の影響で大きく減少したのに対し、空襲の被害が少なかった長野県では1944年から1945年3月末にかけて、わずかではあったが聴取者数の増加を記録している。これは多くの工場が長野県に疎開したことも影響していると思われる(8)。

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戦争の終結と長野県

1945(昭和20)年8月15日、太平洋戦争は終結を見た。長野県内では、都市部の工業地帯から疎開した軍需工場が軍需生産の需要を失い、多くが本社の支援もないままに自主独立の道を歩んだ。諏訪精工舎(現エプソン)、長野日本無線など、県内の主要企業に育ったものも多い。また、高度な技術を持った疎開工場の技術者が、下請け業者やラジオ商などを指導することで地域全体の技術レベルの向上に寄与した。長野県に疎開した技術者の中には、焼け跡の東京に戻って東京通信工業(後のソニー)を発展させる井深大の姿もあった。長野県内に残った旧疎開工場は、高度成長期に県内の工業の基盤として発展していったのである。

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松本放送局のその後

松本放送局は開局当初は送信所に放送局が併設されていたため、松本市郊外の田園地帯にあった。交通が不便で手狭だったため、戦後、ローカル放送が増え、放送局の機能の強化が必要になると、1962年に局の機能が松本市内中心部の深志3丁目に移転した。送信所も大型のアンテナに建て替えのため当初の場所から島立字三ノ宮に1962年に移転し、旧局舎は廃止され、解体後、敷地は民間企業に売却された。現在は記念碑のみが痕跡をとどめる。松本放送局は1988年に放送局から番組制作を行わない支局に格下げとなったためにJOSGのコールサインは廃止され、現在は長野局のJONKに統合されている。送信所は現在NHK島立ラジオ放送所と呼ばれている。

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参考文献

(1)日本放送協会編 『ラヂオ年鑑』 昭和6年版 (誠文堂 1931年)
(2)日本放送協会編 『ラヂオ年鑑』 昭和7年版 (日本放送出版協会 1932年)
(3)日本放送協会編 『ラヂオ年鑑』 昭和8年版 (日本放送出版協会 1933年)
(4)日本放送協会編 『ラヂオ年鑑』 昭和15年版 (日本放送出版協会 1940年)
(5)日本放送協会編 『ラヂオ年鑑』 昭和16年版 (日本放送出版協会 1941年)
(6)日本放送協会編 『ラヂオ年鑑』 昭和17年版 (日本放送出版協会 1942年)
(7)日本放送協会編 『ラヂオ年鑑』 昭和18年版 (日本放送出版協会 1943年)
(8)日本放送協会編 『ラヂオ年鑑』 昭和22年版 (日本放送出版協会 1947年)
(9)『あなたとともに50年』 (NHK長野放送局 1981年)


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