日本ラジオ博物館

Japan Radio Museum

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ラジオ塔
公衆用ラジオ聴取施設
Radio Tower: Public Listening System
1930-49


CONTENTS

ラジオ塔とは

ラジオ塔の形

ラジオ塔の設置

ラジオ塔の聴取料

ラジオ塔の運用

ラジオ塔の設備
(加筆訂正)

テレビアンA-235型シャーシ

ナショナルR-52型シャーシ

戦時下のラジオ塔

ラジオ塔の戦後

長野県内のラジオ塔

長野県内に残るラジオ塔

参考文献 

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ラジオ塔とは

ラジオ塔は、正式には「公衆用ラジオ聴取施設」または「常設公衆受信塔」という、公園などにラジオ付の拡声装置をセットして一般大衆に放送を聞かせるようにした施設である。最初に1930(昭和5)年に大阪、天王寺公園に設置されたものが最初である(18)。続いて翌年までに大阪局管内の公園3か所(京都丸山公園、奈良公園、神戸湊川公園)に設置された。燈籠などの形をした幅1m角程度、高さ3-5mほどの塔であることから「ラジオ塔」と呼ぶようになった(1)。当初はラジオ体操に力を入れていた関西のみで4か所設置されたが、1932(昭和7)年度に、聴取者100万突破記念施設として全国50か所に設置する計画が立てられた。実際にはこの計画の中で全国36か所が実現した(2)。ラジオ塔はあくまでも普段、公共の場で一般大衆に放送を聞かせるための施設で、防災無線のような非常時の情報伝達を目的とした施設ではない。

ラジオ塔の目的は「一般公衆にラジオの使命を普及体得せしめる」(19)ことであったが、設置される理由の一つに、当時、昼間送電がない定額電灯が都市部でも大半を占め(大阪市で80%)、ラジオ体操や野球中継など、昼間の人気のある番組を自宅で聴けない聴取者が多かったことが挙げられる。そのため、昼間でも送電されているラジオ商の店頭に設置されたラジオ(街頭ラジオ)に聴衆が集まる現象が見られた。これを見たJOBKが、中等学校野球開催中の「拡大受信所」との位置付けで設置したという(16)。

特殊なものとして関東支部のみに、臨時に設置する移動用の施設があった。移動用施設についての詳細は不明だが、ラジオ付き自動車のようなものではなく、ラジオ塔状のものをイベント会場などに運んで仮設するもののようである。

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ラジオ塔の形

ラジオ塔は、最初に奈良公園など和風の公園に設置されたものが神社の灯篭に似た形を採用した。1932年に全国展開する際に、放送協会で参考となるデザイン案を10数種類作成したというが、設置場所に合わせたデザインが採用され、それぞれ個性的なデザインとなった(2)。共通要素として高さ2.5―3m程度の塔で、上部にスピーカを設置して、多くは塔内部にラジオの機械を設置する形となっている。燈籠として照明を備えているものも多い。文献(2)に、その設計図の一つが掲載されている(図1)

 
(図1)ラジオ塔の設計案の一つ(2)

これは、東北支部その他で採用されたものとの説明があるラジオ塔の設計図である。高さ2.8mほどの、どちらかと言えば洋風のデザインである。設計図を詳細に見ると、これはコンクリート製ではなく、木造モルタル塗りであることがわかる。比較的低コストでできる案と思われる。断面図左側(これが正面と思われる)には「プログラム入」と指示された枠と、これを照らす小型の照明が描かれている。番組表を入れる額縁のようなものがあるようである。また、外観図には大型の通風孔付きの扉があり、これは内部の機器の点検口と思われる。

ラジオ塔は現在全国(当時植民地だった台湾を含む)に40か所程度現存している。図1に示したような木造モルタル塗りのものは耐久性の点から残らず、現存するものはほぼすべてコンクリート製だが、デザイン的には図1のデザインに似た洋型のものがよく見られる(7)。現存する塔の中から横浜、野毛山公園に残るラジオ塔(図2)を紹介する。

 
(図2)横浜、野毛山公園のラジオ塔

1932年11月19日に建設された最初の計画で実現したラジオ塔の一つで高さ3mある。野毛山公園は桜木町駅から丘を上がった高台にある公園で、ラジオ塔は公園の中でも高い位置の急な築山の上に建っている。周囲にある公園の広場を見下ろす位置にあり、音が良く通っただろう。塔の上部には丸い穴と四角い穴が2つずつあり、丸いほうがスピーカの穴と思われる。灯篭の形から、四角い穴は照明用と考えられる。本来は格子戸でふさがれていたと思われるが、現在は内部の機械とともに失われている。このような状態だが、近くに金属製の説明板もあり、公園の案内図にも記載されている。サイズ、形状ともラジオ塔の標準的なものと言って良いだろう。

ラジオ塔の形態については、(3)(14)のリストによると、燈籠型(図2)と洋型(図1)が最も多く、神社に設置されることが多かったからか神燈型、春日燈籠型、角燈籠型なども多い。特殊な形態として箱型、角柱型、国旗掲揚台を併設したもの、ベンチ付き軍艦マスト型(福岡市記念公園)、ミゼット型(ミゼット型ラジオのような形状のもの)、など、様々なものがあったことがわかる。

材質、構造は多くが鉄筋コンクリート造であったが、木骨コンクリート、木造、石造のものなど、デザインや予算などに応じて多くの材料、構造が選定された。


ラジオ塔を描いたうちわ絵 1937(昭和12)年頃 (個人蔵)

これは、「うちわ絵」と呼ばれる、うちわ業者が受注のために用意する原画に描かれたラジオ塔である。子供の服装や標語から、日中戦争がはじまってからのものと思われる。背景は皇居外苑の楠木正成像だが、この場所にラジオ塔があったという事実はない。ラジオ体操を主な題材として、ラジオ塔、朝日、そして宮城遥拝をイメージして楠木正成像を配した架空の絵と思われる。このラジオ塔の絵には、オリジナルがあると思われるが、発見されていない。スピーカのグリルが25cm程度とすれば、高さ2m程度の比較的小型のラジオ塔である。

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ラジオ塔の設置

最初のラジオ塔は、放送協会が設置したが、公園を管理する大阪市との協議で、建物は市へ寄贈して市が管理し、中の機材は放送協会の所有として協会が管理することになった(19)。ラジオ塔は1934年までは放送協会が計画に従って設置する形で41か所まで増えたが、この41か所のうち1932年度に函館市東川公園に設置されたものは1934年度までに火災で失われた。

その後1935年度に増設された京都市船岡公園と戸畑市八幡神社の2か所は、建物はそれぞれ京都市と神社の社務所が建設し、内部の機械のみを放送協会が提供する形で実現されている。その後年に数か所ずつ増えていくが、いずれも地元の自治体が建設し、ラジオを放送協会が用意した。ラジオ塔用のラジオは1935年までは各局からの貸付であったが、翌36年からは局からの寄贈に切り替わったという(11)。寄贈の例としては松山市が松山市城山公園に建設したものがあげられる(13)。

全国のラジオ塔の数は1940年に激増している。しかし、ラジオ塔の設置に関して、放送協会の官報ともいえる「日本放送協会報」の記述を確認したが、1940年から44年の間に、ラジオ塔の設置に関する記述は見られなかった。このことは、初期の計画によって全国に展開した時期を除いて、ラジオ塔が放送協会の中央が許認可を与えるものではなく、地方局単位で設置していたことを示唆している。

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ラジオ塔の聴取料

ラジオ塔は本来放送協会名義の施設だったため、当然聴取料は無料であった。しかし、自治体や寺社などが設置するものが現れたため、これも無料として運用していたが、1937(昭和12)年度から正式に聴取料免除施設となった。聴取料が免除される施設は、1931(昭和6)年12月19日、逓信省告示第2534号「許可料及聴取料免除に関する逓信省告示」により定められ、現代でいうところの福祉施設や学校などが指定された。放送協会が設立した以外のラジオ塔は当初

八 市区役所、町村役場、警察署又ハ通信官署ニ於テ公共ノ用ニ供スル為施設スルモノ

によって無料としていたと思われるが、1938(昭和13)年12月17日告示第3772号によって下記の第九項が追加された。

九 放送無線電話施設者二於テ放送事業ノ周知開発ノ用二供スル為施設スルモノ

これによってラジオ塔の聴取料免除は、放送協会が設置したものは第9項、自治体等が設置したものは第8項によって無料とされたと思われる。1941(昭和16)年9月24日より施行された「日本放送協会放送無線電話聴取料減免内規」第3条の6に、聴取料を減免する施設として「ラジオ塔(公園又は広場に施設し個別に随意に聴取せしむる聴取無線電話装置)」が明記された(12)。

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ラジオ塔の運用

ラジオ塔にはスイッチが付いたものもあった。天王寺公園に設置された最初のラジオ塔もスイッチ付きで、スイッチを一度押すとリレイの作用で10分間ラジオが聞けるようになっていた(19)。このほかに、自動スイッチで一定の時刻だけ放送が流れるものがあった。この自動スイッチというのは1937年に松本龍三郎氏が発明したもので、電波を受信するとスイッチが入り、電波が切れるとスイッチが切れるようにするものという(11)。スイッチがない多くのラジオ塔がどのように運用されたかは不明である。電源を入れっぱなしにしていたとは考えにくいので、担当者の手でON/OFFされていたのではないかと思われる。

大半の局では電波が一つだけだったので問題ないが、ラジオ塔発祥の地の大阪では第二放送が始まると問題が生じた。中等学校野球(現在の全国高等学校野球)が人気を呼んでいたため、昼間は娯楽放送としてスポーツ中継が含まれていた第二を、夜は第一が聴けるように放送局局員が現地に出向いてチューニングしたという(11)。

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ラジオ塔の設備

では、ラジオ塔にはどのようなラジオが取り付けられていたのだろうか。現存するラジオ塔には、建設当時の設備が残っているものは一つもない。また、ラジオ塔で使用したと明確にわかるラジオの実物も発見されていない。ここからはわずかな資料と推理によってラジオ塔の施設を検討してみたい。なお、ラジオ塔の中にはどう見てもラジオが収納できないデザインのものもある。名古屋市の鶴舞公園に設置されたラジオ塔の場合、本体は塔の近くの茶屋に設置し、塔にはスピーカのみが設置されたという(11)。

標準的なデザインのラジオ塔には背面などに内部にアクセスできる扉を持っている。ここにラジオの本体を収納していたと考えられる。ラジオ塔は公園の広場や神社の境内などの、そこそこ広い面積に音を届ける必要があるため、小型の拡声装置程度のパワーアンプは必要である。しかし、設置された場所は市街地にあり、放送局からは比較的近い場所であった。このため、性能さえ安定していればそれほど高感度のラジオは必要なかったと思われる。建設された年代が1931年から1943年頃と、かなり長期間にわたっているため、初期に設置された機械と最後期のものではかなり違っていたと考えられるが、資料はほとんどない。

前述の鶴舞公園のラジオ塔には米国RCA製のスピーカが使われていたという(11)。1933(昭和8)年というと、国産の本格的な電蓄が出始めたころで、日本製のダイナミックスピーカを使った高級ラジオは少なかった。このため、米国製のスピーカが選ばれたのではないかと思われる。なお、ラジオ塔の中にはどう見てもラジオが収納できないデザインのものもある。鶴舞公園のラジオ塔の場合、本体は塔の近くの茶屋に設置し、塔にはスピーカのみが設置されたという(11)。このラジオ塔の設備はかなり豪華であった。224の高周波2段、224のプレート検波、247Bドライブの245 p-p の出力4Wのアンプという高級電蓄並みのシャーシに224による1段のマイクアンプを備え、マイクとレコードプレーヤを備えていた(19)。電蓄用シャーシか、ラジオ付き拡声装置のシャーシだったと思われる。

ラジオ塔用ラジオについて、標準的な回路は発表されなかったが、1934年のラジオ雑誌に掲載された山中電機の広告にラジオ塔に採用されたことを謳っているものがある。『日本無線史』第11巻によれば、1933(昭和8)年に仙台中央放送局のラジオ塔にA-235型(M-235型のシャーシ)、札幌中央放送局のラジオ塔に同じA-235とA-435型シャーシが採用されたとの記述がある。

 
(図3) 山中電機広告(ラヂオの日本1933年12月号)

このセットのシャーシの写真を次に示す。

テレビアンA-235型シャーシ 山中電機(株) 1933年頃


(図4) テレビアンA-235型と思われるシャーシ(ダイヤルはオリジナルでない)

TUBES: 235-235-224-247-280, Electro-Dynamic Speaker
高周波2段のダイナミックセットのシャーシ。出力管にはまだ2A5がないため、旧型の247がつかわれているが、ダイナミックを駆動するには十分である。

(所蔵No.11A141)

今のところ、ラジオ塔に使われたことが明確にわかる資料はこれだけである。この広告から、ラジオ塔にはキャビネットのない、シャーシのみを納めていたことが伺える。この回路であれば出力2-3W程度出せるので、当時の効率の良いダイナミック・スピーカであれば小型拡声器として使用できたと考えられる。山中電機は当時放送協会認定の取得にも積極的で高品質のラジオを多く生産していた有力企業である。ラジオ塔への採用を「御採用の光栄に浴して」と表現する気持ちも、当時の放送協会の権威を考えれば理解できる。

もう1台、ラジオ塔に使われたと推定できるシャーシを紹介する。上に紹介したテレビアンとほぼ同じ回路の松下のシャーシである。

ナショナル R-52型 松下無線(株) 1935年頃

 
TUBES: 58-58-57-47-80, Electro-Dynamic Speaker

テレビアンA-235よりも少し後の高周波2段のシャーシ。より新しい58と57が使われている。出力管は47だが、本機は2A5に改造されている。効率が悪く高価な47は評判が悪く、真空管が不良になった時にこのような改造が行われることが多かった。松下自身も出力管を2A5に変更したR-53型を追加した。本来は自社製の8インチ・ダイナミックD-80型を組合わせる。トランスの前の2つの穴は平滑コンデンサが取り付けられていた跡である。

(所蔵No. 11A243)

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ラジオ塔用ラジオの内容を検討するヒントになる文書があった(13)。広島放送局から協会総務局長への質問とその回答だが、原文は候文で読みにくいので、骨子を簡単に記すと、「ラジオ塔に設備すべき受信機は一般家庭用よりも大音量が必要だが、最近は高級受信機の入手が困難難なので、認定受信機の普及用に陳列していたラジオで不要になったものを流用しても良いか」という照会に対し、問題ないとの回答が出されている。当時の「高級受信機」といえば、2A5シングルで8インチ程度のダイナミックスピーカを駆動するものであった。この文書からも1940年頃のラジオ塔には、高級ラジオや業務用の電気蓄音機同等として、47または2A5のアンプを持つ高周波1段または2段のラジオで、スピーカは8-10インチ程度のダイナミック型が採用されたと思われる。設置場所やコストによってマグネチックスピーカを使う比較的小さなものもあったと考えられる。

長野県飯田駅前のラジオ塔には「ビクターラジオの優秀品」を設置したとの新聞記事の記述がある(9)。ビクターは一般向けにはシャーシの形での販売を行っていない。電蓄用のシャーシか、拡声装置を設置した可能性もあるが、詳細は不明である。先述のように見本として展示して不要となったラジオを分解して使った可能性もある。参考に、当時のビクター製高級ラジオの内部を示す。


(参考) ビクターラジオ5R-70型の内部

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戦時下のラジオ塔

1939年までは年数か所の増加にとどまっていたが、1940(昭和15)年度以降急激に増加し、1941(昭和16)年度末には倍増して100か所を超えている。増設されたものの多くは様々な団体や個人が寄贈したもののようである。形状から、神社に献燈する習慣とマッチしたのだろうか。多くは公園や神社の境内に設けられた。しかし、1935年までに作られたような凝ったものばかりではなく、簡易型のものも多かったようである(11)。これらに加えて鉄道の主要駅構内の待合室などにも公衆用のラジオ施設が設置されるようになり、公衆用聴取施設は増加していった(4)。ラジオ塔は戦時下にあっても維持され、増えていった。

終戦の年の1945(昭和20)年3月の時点で全国に362ものラジオ塔があった(鉄道駅用施設を含む)(5)。戦災の被害を受けたものもあったと思われるが、終戦直後の1946(昭和21)年3月末の時点で聴取料免除施設として342の施設が、稼動していたかどうかはともかくとして登録されている。もともとラジオ塔の設置環境は厳しい。コンクリートの台の中に収められているといっても炎天下や厳寒の気候にも風雨にもさらされることになる。内部に収められていたのは家庭用とあまり変わらない機械であったようである。元から故障は多かったであろう。部品が極度に不足していた戦時下、公共施設であっても維持は容易でなかっただろう。

施設の増減を個々の地域別にみると、戦災の被害が大きかった東京や大阪でラジオ塔が1945(昭和20)年度に増加していることがわかる(5)。戦災による家庭や事業所のラジオの被害が大きかったために、公衆用施設を強化したものと思われる。これに対して原爆で壊滅状態となった広島の施設はその数を68から54に減らしている。

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ラジオ塔の戦後

戦後、1948(昭和23)年3月末の時点で聴取料免除施設として267のラジオ塔が登録されている(6)。22%ほどの施設が戦後の混乱の中で機能を失ったことになる。続けてみてみると、翌1949(昭和24)年3月末には233とさらに13%減少している(7)。ここまではラジオ年鑑に記載された、聴取料免除施設のなかの「ラジオ塔」の数に着目してまとめてきた。

1950年の放送法成立とともに、先に紹介した旧放送用聴取無線電話規則に基づく逓信省告示も廃止され、その後はNHKの内規として電波監理委員会が認可した日本放送協会放送受信規約第13条の1に定める受信料免除基準によって免除施設が決められた(6)が、この中に「ラジオ塔」の項目はない。戦前から放送を独占してきた社団法人「日本放送協会」が、現在まで続く放送法に基づく特殊法人である日本放送協会(NHK)に改組されるにあたって、受信機製造者や販売業者に直接影響を与える業務を中心に、周知開発業務の多くに制限を受けることになった。ラジオ塔を廃止するとなった資料は発見されていないが、放送法が施行され、民間放送が始まる段階になって公共の場でNHKの放送のみを流すラジオ塔の受信料を免除するということは、新しい時代にそぐわないものとして廃止されたのではないだろうか。

珍しい例として、1955(昭和30)年に民放である信越放送(SBC)が、長野県上田市の上田城跡公園に設置したラジオ塔が現存している(7)。テレビ放送がまだ始まらない、ラジオ全盛期である。スポーツ中継などは人気だっただろう。同社のスポンサー獲得にも一役買ったかもしれない。後の街頭テレビと同じ役割のものともいえるが、スタイルは伝統的なラジオ塔の形である。ちょうどこのラジオ塔が建設されたころにトランジスターラジオが発売され、トランジスター式のメガホンも開発されていた。かんたんに持ち運べて長時間使えるポータブルラジオやハンディ型のメガホンが普及することでラジオ体操などの際に公園のラジオ塔の前に集まる必要はなくなった。学校にもラジオ付きの拡声装置が普及したことで、校庭でラジオ体操を行うことも容易になった。

こうしてラジオ塔は過去のものとなり、忘れられていったが、テレビの普及に役立った「街頭テレビ」も、アイデアのもとはラジオ塔であったと考えられるのではないだろうか。現在はラジオやテレビが普及したが、スポーツ中継などのパブリックビューイングや駅前に面したビルの壁面に付けられた大型ディスプレイ、駅構内のテレビ受像機などに、かつてのラジオ塔の在り方を引き継いだ公共施設の姿が見られる。

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長野県内のラジオ塔

東京中央放送局直轄地域として長野県内にも1932(昭和7)年度にラジオ塔設置計画が決定した。

長野市城山公園 1933年4月23日落成
長野放送局がある長野市城山公園の商品陳列館前に設置され長野県内初のラジオ塔となった(8)。放送協会が設置して長野市に寄贈する形をとった(17)。落成翌日の4月24日には盛大な記念式典が開催されている。このラジオ塔は現存していないが、当時の絵葉書にその姿が残されている。

 
城山公園のラジオ塔(絵葉書より、部分)(左:正面、右:裏面)

このラジオ塔は先に紹介した横浜・野毛山公園のラジオ塔と同じ計画の中で設置されたものだが、こちらは洋風のデザインである。資料(2)によると鉄筋コンクリート製で高さは16.5尺とされ、5mくらいの大きなものであり、スイッチ付であった。公園の中心にある噴水池に面した商品陳列館の前に建てられた。左の正面の写真は小さく写っている絵葉書を拡大したため不鮮明だが、右側の角が斜めにカットされ、「JONK」と思われる文字が縦に刻印されていることがわかる。その左側には半円形の模様があり、台座の部分も非対称なデザインになっている(下部の黒い模様は、木の影)。当時最新のアールデコ風のモダンデザインでまとめられていることがわかる。右の写真は裏側を撮ったもので、商品陳列館の2階から撮影されたものと思われる。裏側は表と違ってシンプルなデザインである。こちら側には点検用と思われる扉があることがわかる。

このラジオ塔には照明の機能はない。写真をよく見ると、塔の上にロッドアンテナのようなものが設置され、電線が内部に引き込まれていることがわかる。このアンテナ状のものは台座の中央にない。タクシーの屋根のアンテナのように、後から付けられたもののように思える。ここで、全体の位置関係がわかる写真を示す。

絵葉書「記念公園と商品陳列館」(部分)
手前が噴水池、奥の建物が長野県商品陳列館である。赤丸で囲んだ部分にラジオ塔が見える。そして左上に見えている鉄塔が長野放送局のアンテナである。このようにラジオ塔は放送協会長野放送局と同じ場所にあり、アンテナのすぐ近くである。電波が強力なので設計時は簡単なアンテナで受信できると考えたのかもしれない。しかし、鉄筋コンクリートの塔の中の電波は弱く、噴水を動かすモーターなども設置されていたので、ノイズの影響もあっただろう。思うような受信品質が得られずに、外部アンテナを追加したのではないだろうか。
飯田駅前 1941年4月

松本放送局が主導して各地の有力者の協力を得て中南信各地にラジオ塔が作られた。南信の飯田駅前には、私鉄であった飯田線を経営していた伊那電鉄が中心となってコンクリート製、照明付きのラジオ塔が完成した。、外観は図1に似た洋型である。内部の機器はビクター製で松本放送局が設置した。新聞記事(9)に写真が残っている。

上諏訪町片倉会館前 1941年4月

温泉を中心とする慰安施設、片倉会館前にラジオ塔が設置された。片倉会館は現存するが、ラジオ塔は残っていない。新聞記事(10)から類推すると、飯田駅前と岡谷市役所脇の間の時期に完成したと思われる。他にはラジオ年鑑の記述以外資料はなく、詳細は不明である。

岡谷市役所横 1941年5月

岡谷市では当時自転車及び電気製品(主に松下製品)の卸業佐寿中(さすなか)商店を経営していた宮坂伝平氏の寄付により岡谷市役所横に高さ1丈5尺クリーム色塗装、照明付きのラジオ塔が完成した。費用は800円余りで、時代を反映して「一億一心」の文字が記されていたという。新聞記事(10)に写真が残っているが、外観は図1に似た洋型である。ラジオ塔が設置された岡谷市役所旧庁舎は現存するが、ラジオ塔は残っていない。この例のように個人などが寄贈したラジオ塔の場合、中身の機械はプロである放送局が提供することが多かったようだが、この岡谷の例では、提供者が松下の電気器具卸という電気のプロである。当然ナショナルのラジオも取り扱っていただろうから、ナショナルのラジオシャーシを調達して電気工事を含めて自身で取り付けた可能性が高い。詳細は不明だが、価格や感度などの点から搭載された可能性が高い当時のナショナルラジオシャーシの例を示す。
 
ナショナルAR-53型5球シャーシ(1938年) 松下無線(株)
ラジオ塔に搭載したと思われる高周波2段のラジオシャーシ
松下無線月報昭和13年5月号より
佐寿中商店は現在(株)サスナカとして、信濃電材、サスナカ通信工業などを中核とする長野県内の企業グループとして発展している。

松本市中央公園 1941年後半

ラジオ年鑑(4)に設置の記録がある。中央公園は松本城天守閣を取り囲む内堀と外側の総堀(公園に面した部分は戦前から埋め立てられていた)に囲まれた一角の公園を示すが、現在では城の全体の敷地を松本城公園ということが多い。公園は戦後、何度も改装され、ラジオ塔は現存しない。新聞記事も確認されていないため、詳細は不明である。

上田市公園広場 1941年後半

ラジオ年鑑(4)に設置の記録がある。上田市公園広場は現在の上田城跡公園と思われる。ここには1955年に信越放送(SBC)が設置したとされるラジオ塔が現存するが、この塔のデザインは古く、長野市のラジオ塔とのデザインの類似性もある。これは戦後に設置したものとは思えない。今は「信越放送」の文字が4枚のタイルで表示されているが、ここにはもともと長野放送局のコールサイン「JONK」が表示されていたのではないだろうか。戦後、SBCがNHKから不要になったラジオ塔を譲り受けて、コールサインを削り取って「信越放送」のタイルを取り付け、1957年に開局を予定していた上田放送局開局のための宣伝用に流用したのではないだろうか。

小諸町小諸公園 1941年後半

ラジオ年鑑(4)に設置の記録がある。古い地図を見るとここも城跡に「公園」の表記がある。現在は懐古園の名で知られるが、ラジオ塔があったのはここかもしれない。

その他

1940(昭和15)年以降、全国でラジオ塔が急増するが、この時期にラジオ塔のほかに長野、松本、塩尻などの主要駅にラジオが設置された。

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長野県内に残るラジオ塔?

県内に現存するラジオ塔としては上田市城跡公園にある信越放送のもの(7)が唯一のものだが、この他に長野市郊外の地附山山頂の遊園地跡にラジオ塔に似た建物が残されている。

 
地附山山頂に残る廃墟 (写真:個人蔵)

多くのラジオ塔とは異なり、木造モルタル仕上げである。高さ5mほどの灯篭型ラジオ塔に近いデザインであるが、これは1958(昭和33)年の長野県内のテレビ放送開始に合わせて長野市にある秋葉神社境内に設けられた「テレビジョン常設公開塔」であることがわかった(15)。上段にテレビ受像機を納めていた。下段には番組表やポスターなどを掲示していたようである。本来は上段に日除けの庇となる蓋と扉が取り付けられ、屋根にアンテナと思われるものが付いていたが、失われている。戦前のラジオ塔を思わせる古風なデザインだが、神社の境内にマッチするようにデザインされたのだろう。

この場所は1961年に開通した善光寺ロープウェイの終点にあたる山頂で、遊園地や動物園が作られ、一大レジャーランドを目指したようだが、1970年代半ばにロープウェイが廃止されたことから周辺の施設も閉鎖され、現在は廃墟になっている。この塔も遊園地の施設の一部と考えられる。テレビが急速に普及し、不要になったテレビジョン常設公開塔が新しい市のレジャー施設に移設されたものと考えられる。テレビ草創期に人気を集めた「街頭テレビ」は、ラジオ塔が形を変えて戦後に現れたものともいえるが、大半が仮設の施設だったために現存していない。このような「街頭テレビ」の遺構が残っているものは非常に珍しく、貴重である。

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参考文献

 1) 日本放送協会編 『ラヂオ年鑑』 昭和7年度版 (日本放送出版協会)
 2) 日本放送協会編 『ラヂオ年鑑』 昭和8年度版 (日本放送出版協会)
 3) 日本放送協会編 『ラヂオ年鑑』 昭和9年度版 (日本放送出版協会)
 4) 日本放送協会編 『ラヂオ年鑑』 昭和17年度版 (日本放送出版協会)
 5) 日本放送協会編 『ラヂオ年鑑』 昭和22年度版 (日本放送出版協会)
 5) 日本放送協会編 『ラヂオ年鑑』 昭和23年度版 (日本放送出版協会)
 6) 日本放送協会編 『ラヂオ年鑑』 昭和25年度版 (日本放送出版協会)
 7) 一幡公平『ラヂオ塔大百科2017』 タカノメ特殊部隊発行 2017年 購入する(外部サイト)
 8) 『信濃毎日新聞』 1933年4月24日朝刊 信濃毎日新聞社
 9) 『信濃毎日新聞』 1941年4月2日朝刊 信濃毎日新聞社
 10) 『信濃毎日新聞』 1941年5月2日夕刊 信濃毎日新聞社
 11) 佐藤鉱司「「ラヂオ塔」に関する考察」『放送博物館だより』 No.58 学芸員ノート (NHK放送博物館 2012年)
 12) 「通達第34号」『日本放送協会報』 第390号 1941.9.12 (社)日本放送協会
 13) 「指令回答 広総第3647号/総普第3490号」『日本放送協会報』 第382号 1941.7.28 日本放送協会
 14) 『日本放送協会史』 (日本放送協会 1939年)
 15) 『あなたとともに70年』 (NHK長野放送局 2001年)
 16) 山口 誠 「「聴く習慣」、その条件」 『マス・コミュニケーション研究 No.63』 2003年
 17) 南 利明 「戦前ローカル放送の軌跡 ~JONK(長野)小史~」『NHK放送文化研究年報24』 (NHK総合放送文化研究所 1979年)
 18) 「BKのラジオ塔」『調査月報』第3巻第6号 (日本放送協会 1930年)
 19) 「JOCK欄:CK名古屋のラヂオ塔を解剖すれば」『ラヂオの日本』 第16巻第6号 (日本ラヂオ協会 1933年)

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