日本ラジオ博物館

Japan Radio Museum

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青年団ラジオ

目次

青年団と青年学校の歴史

青年団向け放送の始まり

青年団受信機 (加筆訂正)

青年団受信機の不正使用問題 (NEW)

 青年1号縦型 RC-300型 坂本製作所

青年2号A型受信機 坂本製作所

青年2号B型受信機 松下無線(株)

青年2号C型受信機 早川金属工業(株)

青年2号D型受信機 ミタカ電機

青年団4号A型受信機 山中電機

青年4号B型受信機 (財)日本青年館/ミタカ電機

青年5号A型スーパー 早川金属工業(株)

「青年」真空管 (NEW)

業界に波紋を呼んだ「青年団ラジオ」

第二次青年団受信機

太平洋戦争下の青年団団体聴取

参考文献

第1展示室HOME


青年団と青年学校の歴史

江戸時代までの各村落ごとに見られた若者組などと呼ばれる、集落内の若者が合宿をしながら大人の世界のしきたりなどを学んでいく組織が母体となり、明治末期から大正時代になって青年団と呼ばれる組織が全国各地に作られるようになった。大正時代に明治神造営奉仕活動に全国の青年団が動員されたことをきっかけに、大日本連合青年団が結成された。

青年学校は、小学校卒業後の勤労青年に対し教育を行う機関で、職業教育を重視した実業補習学校と、対象は同じだが、軍事教練を重視した職業訓練所を統合して1935年に発足した。高等小学校に相当する普通科2年、旧制中等学校3-5年に相当する本科3年、旧制高校2-3年に相当する本科4-5年からなる7年間であった。男女とも入学できたが、本科4-5年は男子のみであった。

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青年団向け放送の始まり

青年団と放送の関係としては、放送協会が青年団に聴取料の集金を委嘱し、その手数料を青年団の団費に充てたのが始まりと言われる(8)。

青年団では団員の教養を高めるための学習活動を実施してきた。また、日本放送協会では1935(昭和10)年頃から学校放送の実施とともに、欧米で効果を上げていた成人向けの団体聴取活動を参考にした企画が、各放送局で始められていた。大阪放送局で1934(昭和9)年4月2日から5月5日まで放送された「農村への講座」に際して産業組合、実業補修学校(後の青年学校)、青年団などに団体聴取を提唱し、受信機を貸し出し、テキストを無料配布して参加を促進した。これが青年団の団体聴取の始まりとされる。

1936(昭和11)年から、大阪の「農村への講座」は「ラジオ青年学校」と改められ、東京では新たに「青年講座」が放送開始された。青年講座のテキストは青年学校、青年団に無料配布された。翌1937年からは東京、名古屋、大阪各中央放送局管内で統一した番組として第二放送で放送された。放送時間は仕事が終わった後の青年団活動及び夜学が中心であった青年学校を対象として午後8時半から9時であった。1939年9月からは「青年の時間」となった。10月以降、第二放送のない(東京、名古屋、大阪以外の)地域に向けて毎週火曜日の「青年の時間」を第一放送で全国中継するようになった。

青年団の団体聴取は仕事が終わった夜間に行われたため、夜の放送時間が適していたが、青年学校が、義務教育化を目指して全日制になっていったために、学校放送のように聴取されることは少なくなっていった。

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青年団向け放送のテキスト

青年団向け放送のテキストとしては1935年から「教養放送」が月刊誌として有料(定価5銭)で発売されたほか、1937年からは専用のテキスト「ラヂオ青年講座」が年5回発行され、無料配布された。

  
(左)ラヂオ青年講座第6号(農村用) (右)教養放送第55号
1938年 大阪中央放送局/日本放送協会

青年向け放送のテキストである。「教養放送」は有料で一般向けに販売され、「ラヂオ青年講座」は青年団や青年学校向けに無料配布された。体裁や内容はほぼ同じで、日にちごとの放送内容の概要が掲載されている。内容は精神訓話から歴史、経済、科学、文学、農業経営、職業紹介など幅広い。テキストは写真の「農村用」と「都市農村用」が作られ、実業系の番組が農村用は農業経営や農業技術に特化しているのに対し、都市向けのものは珠算や会社や工場に勤める青年の体験談などがみられる。全体としては農業に関する番組が多く、小学校卒業後に教育を受けられない青年が多い農村部を重視していたことがわかる。

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青年団受信機

大日本連合青年団では、放送協会と提携してラジオ団体聴取の効果を認め、特に農村部へのラジオ普及を図るためにメーカーに専用の推奨受信機を作らせ、各青年団に対して購入金額の半額を補助することとした。放送協会では12万2千円もの経費を補給したという。このほか、聴取施設許可料の代納、取次手数料の給付などの援助を与えた。このようにして生まれたのが「青年団ラジオ」である。

青年団ラジオは松下、早川、山中など、当時の一流メーカが生産していた放送協会認定品を特別な割引価格で提供した。1937年11月上旬から1938年2月下旬までに25,000台が放送協会により斡旋配給された。これに併せて日本青年館では、放送協会と協力してラジオの技術講習会を開催し、会員の技術向上に努めた。デザインは各社の量産品がベースになっているが、スピーカのグリルが「青年」の文字を図案化した共通のデザインとなっているのが特徴である。

 (表1) 交流式受信機

型名 真空管 回路方式 製造会社名 感度階級 配給台数 認定番号 認定年月日 備考
青年1号縦型 27A-26B-12A-12B 並四 坂本製作所 中電界級 不明 11085 1937.5.11 RC-300型、縦型、廃止
青年2号A型 27A-26B-12A-12B 並四 坂本製作所 中電界級 4,393 11084 1937 旧青年1号横型
青年2号B型 27A-26B-12A-12B 並四 松下無線(株) 中電界級 919 11056 1937 シスターS230号相当
青年2号C型 27A-26B-12A-12B 並四 早川金属工業(株) 中電界級 4,045 11077 1937.11.2 シャープA型相当
青年2号D型 27A-26B-12A-12B 並四 ミタカ電機(株) 中電界級 4,009 11036 1935.12.23 アリアR-12型相当
青年4号A型 24B-24B-47B-12B 高一 山中電機(株) 微電界級 9,327 11045 1936.4.20 テレビアンM48号相当
青年4号B型 24B-24B-47B-12B 高一 (社)日本青年館 微電界級 331 11047 1936.5.27 アリア470号相当
青年5号A型 2A7-58-57-47B-12B スーパー 早川金属工業(株) 極微電界級 906 非認定

 (表2) 直流式受信機 (全て非認定品)

型名 真空管 回路方式 製造会社名 感度階級 配給台数 備考
青年直流2号A型 167-30-169 再生検波低周波1段 中電界級 254
青年直流3号A型 167-30-169 再生検波低周波2段 弱電界級 216
青年直流4号A型 167-30-30-169 再生検波低周波2段 微電界級 352
青年直流5号A型 167-1A6-167-167-169 スーパー 極微電界級 33

 上記一覧表は『日本無線史』第八巻(4)によった。これによると青年5号A型スーパーも認定品とされているが、このような形式の認定品は確認されていない。

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青年団受信機の不正使用問題

多額の予算を使ってラジオの設置を目指した青年団受信機は、青年団の名義で聴取契約し、許可を受けた。施設許可料の代納は行われたが、聴取料の減免はなかった。
青年団代表者名義で許可された許可書の一例を示す。青年団の団体聴取は、このように代表者の自宅で行われたと思われる。


青年団代表者名義で許可された許可書の例 (愛知県、1938年)

聴取料の免除は与えられなかったが、さまざまな理由をつけて聴取料を支払わない事例が続出した。また、青年団受信機が代表者の自宅に設置されたことから、青年団名義で聴取許可を受けて個人に名義変更したり、青年団受信機を安価に入手しながら学校や役場に取り付けたり個人で使用する事例が続出し、放送協会から大日本青年団に申し入れが出されることもあった。(5)

当館には、不正使用の実例を示す手紙が収蔵されている。福島県在住の人物から仙台逓信局長あてに1938(昭和13)年4月16日に「重複申込」として片方の許可(個人名のほう)の廃止届を出したところ、受理されず、仙台中央放送局から大日本連合青年団宛に回送され、申請者に理由を示す手紙を添えて大日本連合青年団ラヂオ係から申請者に書類一式が返送されたものである。手紙は以下のとおり(旧漢字を現代のものに変更)。

拝啓

同封ラヂオ聴取廃止届は、其の廃止理由が、青年団用ラヂオ施設の趣旨に反する廉を以て、受理にならず、仙台中央放送局より回送され来り候ものに候
今般の青年団用ラヂオ施設は、青年団の時局対策としてのものに有之、青年団用ラヂオのみにて個人用には及ばず、右趣旨の為、日本放送協会の協力、補助の支出等も得候次第に候間、続いて青年団用として施設相成りご利用くださるやうご考慮煩わし度廃止届返戻旁々右御勧奨迄斯の如く御座候
敬具
昭和十三年  月  日
大日本連合青年団
                        殿
この許可は1938(昭和13)年3月12日に個人名で与えられ、廃止年月日3月12日として4月16日に、未使用の受信章、許可書とともに廃止届が出されている。廃止理由は「従来より許可あるため」となっている。4月25日の受付印があり、大日本連合青年団は5月18日に手紙を出している。青年団受信機を入手したことで、同じ住所で使用するラジオの個人の聴取契約を廃止しようとしたものと思われる。青年団受信機を個人用に使用する事になるため廃止を拒否したものと思われるが、この手紙は自筆ではなく、ガリ版刷りとなっていて、日付と宛名は記入されていない。青年団受信機の配布が終わった1938(昭和13)年に、このような行為が横行して、廃止届の拒否が多く発生していたことを示唆している。

青年団受信機は代表者の自宅に設置された。青年団活動のみに使用するのが建前だが、実際には一日中青年団活動を行うわけではないので、これを個人的にも使用する時は青年団名義と個人名義の2件の契約が必要ということになった。制度の趣旨からは当然のことだが、聴取者にとっては納得しかねるものだっただろう。重複している個人の契約を廃止したくなる気持ちはわかるが、受信機を補助により安価に頒布する以上個人用への流用は許されないだろう。このようなことは現代の補助金で購入した物品についても付きまという問題である。

青年団の活動費用の補助としてか、聴取料の支払いを率先垂範して不正使用の防止のためか、青年団に地域の聴取料の集金の委託が計画され、一部で実施された。

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青年1号縦型 RC-300型 (放送協会認定第11085号) 坂本製作所 1937年
 
  

TUBES: 27A 26B 12A 12B (12F), Magnetic Speaker,

青年団受信機の最も初期のもの。コンドルRM-301と同じ認定番号を受けた。シャーシの銘板には、青年の表記がない。正面パネルには「青年1号型」のラベルがあるようだが、本機では判読できない。横型の青年1号横型(放11084)と同時に発売されたが、旧式な縦型は早い段階で製造中止となった。本機は認定前に発売されたものらしく、認定標章がない。

本機のスピーカはオリジナルでない。

(所蔵No.S11095) (柴山 勉コレクション)

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  青年2号A型受信機(旧青年1号横型) (放送協会認定第11084号) 坂本製作所 1937年
 

 
正面の銘板とシャーシの銘板
TUBES: 27A 26B 12A 12B (12F), Magnetic Speaker,

青年団受信機の最も初期のもの。当初は「青年1号横型」と呼ばれ、縦型のキャビネットの青年1号縦型とペアで発売されたが、旧式なデザインの縦型は廃止され、青年2号A型に改められた。シャーシの銘板には、青年1号の表記が残っている。放送協会認定品11085号のコンドルRM360型とシャーシが共通である。

(所蔵No.11959)

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  青年2号B型受信機 松下無線(株) (放送協会認定第11056号) 松下無線(株) 
 

TUBES: 27A 26B 12A 12B (12F), Magnetic Speaker

松下の放送協会認定品、シスターS230型をベースとする小型の青年団向けセットである。デザインの基本はベース機と同じだが、スピーカのグリルが「青年」の文字を図案化したものになっている。三極管検波の並四球受信機でマグネチック・スピーカを駆動する。他社の青年団受信機も認定品をベースとし、グリルに「青年」の文字を図案化したものを使っている点は共通する。松下は、ラジオ業界のトップメーカとして流通、販売業者からの批判を受けて早期に青年団ラジオの供給を中止したため、この機種の台数は少ない。

(所蔵No.11A053)

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青年2号C型受信機 (放送協会認定第11077号) 早川金属工業(株) 
 

TUBES: 27A 26B 12A 12B, Magnetic Speaker

早川の放送協会認定品、シャープ140A型の外観を修正して青年団向けとしたセットである。デザインは他の青年団受信機同様、スピーカのグリルが「青年」の文字を図案化したものになっている。三極管検波の並四球受信機でマグネチック・スピーカを駆動する。写真の銘板は裏蓋に付けられているが、正面パネルに付けられたモデルも存在する。

本機は、24B 27A 12A 12F に改造されている。ツマミはオリジナルではない可能性がある。

(所蔵No.11A086)

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  青年2号D型受信機 (放送協会認定第11036号) ミタカ電機(株) 1937年
 

  
TUBES: 27A 26B 12A 12B, Magnetic Speaker

ミタカ電機の放送協会認定品、R-12型をベースとする青年団向けセットである。デザインの基本はR-12型と同じだが、スピーカのグリルが「青年」の文字を図案化したものになっている。三極管検波の並四球受信機でマグネチック・スピーカを駆動する。他社の青年団受信機も認定品をベースとし、グリルに「青年」の文字を図案化したものを使っている点は共通する。本機には、聴取許可書が添付されてる。これによると愛知県知多郡横須賀町の青年団で使われていたことがわかる。

(所蔵No.11709)

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  青年団4号A型受信機 (放送協会認定第11045号) 山中電機(株) 1937年
  

 
取説表紙(個人蔵)、裏表紙には山中電機株式会社特製とある。 回路図 (取説より)
TUBES, 24B-24B-47B-12B/F, Magnetic Speaker

山中電機の放送協会認定品、M-48型をベースとする青年団向け高一セットである。デザインの基本はM-48型と同じだが、スピーカのグリルが「青年」の文字を図案化したものになっている。他社の青年団受信機も認定品をベースとし、グリルに「青年」の文字を図案化したものを使っている点は共通する。高一であるのは、電波の弱い農村部向けであったからだろう。

本機のツマミはオリジナルではない。
(所蔵No.11306)

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青年4号B型受信機 (放送協会認定第11047号) 高一付4球 (社)日本青年館/ミタカ電機(株) 1937年 
 

 
TUBES, 24B-24B-47B-12B/F, Magnetic Speaker

ミタカ電機のアリア470型(認定番号:放11047)をベースとする高一受信機。デザインはオリジナルとはかなり異なる。スピーカのグリルが「青年」の文字を図案化したものになっているのは、他の青年団受信機と共通する。このセットは、他の青年団受信機と異なり、銘板に、メーカ名でなく、社団法人日本青年館と入っている。日本青年館は、青年団活動の拠点として1925年に建設された会館であり、同名の社団法人(現在は財団法人)が運営に当たっている。会館という建物の機能のほかに、日本青年館は、青年団活動の育成のためのさまざまな事業を運営してきている。この機種は、生産台数が331台と、他の青年団受信機と比べて極端に少ない。通常のルートで販売されたものではなく、日本青年館が特別に作らせて、配布したものと思われる。

本機のスピーカはオリジナルでない。また、検波コイルと真空管が失われている。
(所蔵No.11791)

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 青年5号A型 5球スーパー 早川金属工業(株) 1937-38年
  
TUBES: 2A7-58-57-47B-12F, Electro-dynamic Speaker

青年団受信機としてはもっとも高級なモデル。アメリカ、エマーソン社のデザインを模したダイヤルには、外地のものを含む各局のコールサインとSuperheterodyneの文字が描かれている。コールの中に中国、南京のXGOAが含まれていることから、日本軍が南京を占領した1937年10月以降の製品と考えられる。

このような高級受信機は数が少なく、このセットも906台しか供給されていない。本機の製造番号は900で、最後期の製品である。本機の同型機が北海道北見市の北網圏北見文化センターに所蔵されているが、製造番号が「1362」である。配給台数のデータに誤りがあるか、青年団受信機制度が早めに中止された後の第二次青年団受信機として設置されたものと考えられる。この機種の全配給台数の28%が北海道に配給された(2)。広大な地域ゆえに高感度なスーパーラジオが必要だったのだろう。

本機は戦後6.3Vのスーパーに改造されている。スピーカはオリジナルではない。
ツマミも戦後の不揃いなものが付いていたため取り外し、同時代のシャープ58型のレプリカを取り付けた。

(所蔵No.11743)

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「青年」真空管
青年団受信機に「青年」の表示のある真空管が取り付けられていることがある。写真はその一例だがメーカ名はなく、電極のつくりなどは粗雑で、中小メーカ製の安物と思われる。青年団受信機は、放送協会認定品から選ばれたため、本来なら「マツダ真空管使用」であったはずだが、低価格で供給するため真空管なしで出荷され、安物の特注の真空管を取り付けて頒布することがあったのかもしれない。この真空管については情報が少なく、詳細は不明である。

ベース部の紙テープはかなり古い時代のルーズベースを補修した痕跡である。

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業界に波紋を呼んだ「青年団ラジオ」

1937(昭和12)年、「青年団ラジオ」は、同時に始まった「官庁ラジオ」と合わせてラジオ業界に大きな衝撃をもたらした。上記のように、大日本連合青年団のパンフレットでは、「ラジオの価格の半額を補助」と書かれているが、業界紙である「ラジオ公論」紙上では、「青年団は市価の半額でラジオを入手できた」と書かれている。放送協会による補助金、斡旋と、メーカの割引により、顧客である青年団や官庁としては市価の半額でラジオが手に入ったわけである。実際には、当初放送協会から相談があり、25社程度のメーカが参加しての入札が行われたが、価格が低く、一部の大手メーカが安値で落札する結果になったという。落札できなかった中小メーカからは不満の声が上がった(6)。

メーカーにとっては新たな販路ができたわけだが、メーカーから青年団への直売となり、卸問屋やラジオ商を飛ばしてしまうので販売店側から猛烈な反対運動が展開された。業界に波紋をもたらしたことで納入メーカの協議会は1937(昭和12)年11月、1938(昭和13)年3月末までとなっていた青年団との納入契約を早期に打ち切ることを決め、翌1938(昭和13)年、販売店との関係を重視した松下などの大手メーカが青年団との納入契約を打ち切ることで解決を見た。結局、青年団向け受信機はごく短期間で消えることになった。

このような「販売店飛ばし」的な動きに対してはこの後も放送局型受信機(標準受信機)などに対して反対運動が巻き起こるが、戦局の悪化に伴う統制の強化で販売店も配給組織に組み入れられていく。青年団ラジオ反対運動の成功は、自由経済下の販売店の最後の成果と言えるかもしれない。この問題の教訓から、内務省警保局、逓信省から放送協会に申し入れがあった「官庁ラジオ」については、ラジオ業界として引き受けないことになったという。(6)

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第二次青年団受信機

卸、販売業者の反対で早期に終了した青年団受信機だったが、放送協会と協力した計画が終わったのち、大日本連合青年団が独自に青年団受信機の設置を目指した。第二次計画の台数は5千台と言われる(7)。この計画についてはまだ文献(7)に簡単に述べられているだけで詳細は不明である。

この第二次計画が実際に行われたとされる証拠として、(表1,2)に示す配給台数を超える製造番号が付いたラジオが発見されていることが挙げられる。早期に終了して独自のデザインの青年団受信機が余ったので第二次計画に充てたものか、第二次計画用に生産したものかは不明である。

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太平洋戦争下の青年団団体聴取

1941(昭和16)年、国策に沿う形で大日本連合青年団は他の組織と合同して大日本青少年団となった。同年7月より毎月22日の青年記念日を期して毎月1回22日に青年団常会向け放送を開始した。当初「ラジオ青年常会」という番組名だったが、12月8日の太平洋戦争開戦以降、「戦時青年常会」と改められた。青年学校向け放送は電波管制のために第二放送が中止されたため、太平洋戦争開戦後は中止された。

当館が所蔵している1942(昭和17)年の「ラジオ団体聴取簿」を以下に示す。

  

粗末なA5版の紙に印刷された20ページの冊子で、放送内容をメモする右写真のページが1年分(12ページ)あり、その他は青年団綱領、聴取心得、白紙のメモ欄などで構成されている。発行は日本放送協会となっている。表紙の写真は不鮮明だが、民家と思われる日本間の一隅にナナオラ75型らしいラジオが置かれ、ラジオの近くに指導者らしい中年男性が座り、取り囲んで座っている青年たちが熱心にメモを取っている常会の様子である。

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青年団、青年学校の戦後

青年団は1945(昭和20)年5月、学徒隊に編入されて解散し、その学徒隊も終戦とともに消滅した。戦後は民主的な組織としての青年団が設立され、現在に至る。青年団向け放送は、現在の成人向け放送講座や農漁村向け放送の原点といえるかもしれない。

青年学校は、1947年に学校教育法施行とともに青年学校令が失効し、普通科は新制中学校に移管された。本科は1948年に新制高校が発足してから、新制高校の定時制分校(後の定時制高校)となったところが多い。

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参考文献

1) 『青年カード』 第4次第13号 (大日本連合青年団 1937年)
2) 日本放送協会編 『ラジオ年鑑』 昭和10年、12年、13年、18年版 (日本放送出版協会 1935 1937 1938 1943年)
3) 曽崎重之 『ラジオの昭和史』 (閉鎖)
4) 電波監理委員会編 『日本無線史』 第八巻 (電波監理委員会 1951年)
5) 『日本放送協会報』 (日本放送協会 1938-39年)
6) 『CKラジオ商組合内報』 第118号 1938年1月10日
7) 『教養放送』 第55号 昭和13年11月 (日本放送協会 1938年)
9) 電波監理委員会編 『日本無線史』 第十一巻 (1951年)

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