日本ラジオ博物館

Japan Radio Museum

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放送受信章の変遷(戦前編)

1925-45


CONTENTS

はじめに、放送聴取章とは

3局並立時代:最初期の聴取章 (1925-26)

3局合同と放送協会の設立:支部別の聴取章 (1926-34)
(加筆訂正)

より強固な全国組織へ:聴取章の統一 (1934-39)

開発用受信機標章 (1940)

戦時体制へ:放送協会の聴取章から逓信省の許可章へ (1940-45)

参考文献


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戦後編


はじめに、放送聴取章とは

放送が始まった当初から、ラジオ放送(のちにテレビ)を受信するには、放送局(現在はNHK、戦前は日本放送協会)との受信契約が必要であった。聴取章は、契約を結ぶと送られてくる小型のバッジで、玄関先や門柱など受信機の設置場所の、外から見やすい場所に表示する義務があった(携帯受信機の場合は受信機に取り付ける)。

なお、放送法が成立する1950年まではラジオの聴取に逓信省(のちに電通省)の施設許可が必要であった。受信契約が結ばれると、放送局からは「聴取章」が、逓信局からははがきに印刷された「聴取無線電話施設許可書」が送られてくる仕組みであった。

聴取章は放送開始当初からあり、そのデザインや表記は、放送局の組織の変更や制度などに従って変化してきた。ラジオのみの時代には「聴取章」であったが、テレビが始まってから「受信章」になった。

本稿では、その変遷をたどることにする。

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3局並立時代:最初期の聴取章
(1925-26)

東京、名古屋、大阪の各放送局が独立した組織であった時代は、各放送局が聴取章を発行した。

 
初期の受信章 いずれも1925(大正14)年
(左)東京放送局  (中)名古屋放送局(個人藏)  (右)大阪放送局(個人藏)

放送開始初期の放送局が発行した受信章。東京の受信章は真鍮製である。大阪、名古屋のものは全くこれと異なり、ホーロー引きである。きっちりとしていて権威が感じられる東京に対して、明るく手作りの味があり、素朴な風合いの大阪、名古屋という感じである。名古屋放送局の初期の受信章は、大阪の直系64mmに対して78mmと大きい。このデザインは次項に示すように3局合同後の東海支部の受信章に引き継がれたが、初期の名古屋の受信章は。東京や大阪より一回り大きい。ここに示した名古屋、大阪の受信章はいずれも3ケタ台の番号の、開局間もないころのものである。

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3局合同と放送協会の設立:支部別の聴取章
(1926-34)

1926年8月20日、政府の方針により東京、大阪、名古屋の3放送局は1つの社団法人に再編されることになり、日本放送協会が成立した。各放送局は東京を本部とする関東、関西、東海の支部に再編され、それぞれ中央放送局とされた。大阪放送局の本放送開始は1926年12月1日であるので、合同されてからの本放送ということになる。3つの放送局が独立して活動していたのは1年半余りの短い期間であった。東京放送局は、東京中央放送局となり、1927(昭和2)年度には新たな支部が追加され、関東、関西、東海、中国、九州、東北、北海道の7つの支部で全国を網羅する組織となった。全国組織となり、聴取章は、各支部ごとに発行されることになった(写真を除く図版は文献(1)より)。

大阪、名古屋で使われたホーロー製の受信章は取付時の破損が問題になったという(5)。名古屋局では引き続きホーロー製が使われたが、大阪局では3局合同を機会に取付時に破損しやすいことから金属製にデザインが変更されることになった。1926(大正15)年度から、ホーロー製を廃止し紙製の仮聴取章が交付された。1927年に金属製の聴取章が用意され、仮聴衆章を先に金属製に切り替え、1927(昭和2)年3月下旬までに聴取者全員の分を新調する方針が示された(5)。

 
(左)東京中央放送局発行 1931(昭和6)年頃 (右)関西支部(JOBK) 1929(昭和4)年頃(個人蔵) 

 
関西支部(JOBK) (左:1932年) 関西支部(右:1933年) (個人蔵)

 
 東海支部(JOCK)  1930(昭和5)年頃 (左写真:JR2IPN様提供)

放送協会設立後の聴取章。東京のものの材質はアルミである。大阪の材質や色は不明、名古屋のものは名古屋放送局と同じホーロー製である。この写真は愛知県半田市に保存されている古民家に取り付けられているものである。デザインは合同前と同じだが、サイズは他の局と同じ50mm程度の小さなものになった。

合同から5年近く経過しても、放送協会は各支部の権限が強く、この時代、標章の形は統一されていない。これらの実例から、合同当初の放送局が後に中央放送局となる大規模な局しかなかった頃は、各局のコールサインを表示していたが、地方局が設立されて支部内に複数のコールサインが存在するようになると「XX支部」の表記にしたようである。下の東北支部も同様である。

   
      東北支部(仙台JOHK) (左)1930(昭和5)年頃 (右)1932(昭和7)年(個人藏)

   
左から 北海道支部(札幌JOIK) 九州支部(熊本JOGK)  中国支部(広島JOFK)  いずれも1930(昭和5)年頃

標章の表記は、東京が古典的な「聴取無線電話」となっているのに対し、ラヂオ聴取章、聴取章、聴取者標章など、様々な表記がみられる。放送局名の表記も、東京は「東京中央放送局」だが、他は広島放送局など局名を漢字表記したり、JOBKのようにコールサインのみのものなどさまざまである。デザインは、東京のデザインに近いものが多いが、東北支部だけは角形になっているなど、個性的である。

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より強固な全国組織へ:聴取章の統一
(1934-39)

1934(昭和9)年の組織改革で本部都市部から成る組織を廃止し、各支部が中央放送局となる全国統一の組織となった。これに伴い、聴取章のデザインも統一され、上記の東京のデザインを基本として、「ラヂオ聴取章」「日本放送協会」「東京など局名」の表記に改められた。東京、大阪は、聴取者数が多いために100万を超えると、通し番号ではなく、イロハまたはアルファベットと番号の組み合わせの許可番号となっている。

 
統一された受信章 (左)東京 (右)大阪(個人藏)

 
統一された受信章 (左)名古屋 (右)熊本(個人藏)

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開発用受信機標章
(1940)

次の写真に示す1940(昭和15)年製のラジオ(放送局型11号)の正面パネルに取り付けられた札幌放送局のものと思われる標章は、聴取者の受信章ではなく、「開発用受信機標章」と呼ぶ。これは放送の宣伝(周知開発といった)のために、官公署や学校、青年団などに申請に基づいて一定期間(基本10日、最大1か月)放送協会が貸し出すラジオに取り付ける。貸出場所については、ラジオを展示し、宣伝するイベントだけでなく、ラジオを設置していない一般家庭に貸し出すこともできた。現代でいうならデモ機である。貸し出されるラジオには発売されたばかりの放送局型受信機を使用した(6)。

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戦時体制へ:放送協会の聴取章から逓信省の許可章へ
(1940-45)

1940(昭和15)年頃から、戦時体制を反映して、従来、許可書は逓信局、聴取章は放送協会からそれぞれ発行されていたのが、放送協会の聴取章が廃止され、逓信省の「放送聴取許可章」が「聴取無線電話施設許可書」とともに逓信局より発行されるようになった。


   初期の逓信省の許可章(熊本) 寸法は長辺側で約45mm

 

(左)逓信省の許可章(東京) 1943(昭和18)年頃 (右)通信院の許可章(広島) 1944(昭和19)年頃

逓信省が直接許可証を発行するようになった時のもの。初期のものはアルミ製で、表記が右書きである。戦争末期の1943年4月からは表記が左書きとなり、木製の札となっている(7)。1943年11月から官庁の再編で逓信省と鉄道院が統合され、運輸通信省となった。通信は同省の外局である通信院の所管となり、受信章の表記も変更された。1945年5月には運輸通信省から通信院が分離され、内閣所属として逓信院が設置された。戦後、再び逓信省が設置されるが、海運、航空は運輸省の所管のまま残され、通信事業のみを担当した。

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戦後編


参考文献

(1)『ラヂオ年鑑』 昭和6年度版 (社)日本放送協会
(2)『ラヂオ年鑑』 昭和12年度版 (社)日本放送協会
(3)『ラジオ年鑑』 昭和16年度版 (社)日本放送協会
(4)『NHK年鑑』 1963年版 日本放送協会
(5)『ラヂオの日本』 昭和2年4月号 日本ラヂオ協会 1927年
(6)『日本放送協会報』 第322号 「通達第6号、総第3990号」 1940.3.15 (社)日本放送協会
(7)『日本放送協会報』 第453号 「通牒 総計第3153号ノ3」 1943.11.27 (社)日本放送協会

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