日本ラジオ博物館

Japan Radio Museum

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5球スーパー全盛期
- 1951-55 (昭和26-30)年 -


CONTENTS

解説編


(以下別ファイル)

5球スーパー展示室(1)
大手メーカ編

5球スーパー編(2)
中小メーカ、外国製品編

ST管からmT管へ


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解説編


5球スーパーの普及とラジオ業界

1951年の民放開局以降、新しく生産される再生式受信機は激減し、1953年からは統計から消滅した。1951年3月の市場調査では、東京都内の販売店店頭に再生受信機は見られなかったという(ラジオ年鑑1951年版による)。朝鮮特需以降の好景気によりラジオの生産、聴取加入とも順調に増加を見せた。1953年にはテレビ放送が始まるが受像機も高価でまだまだラジオが放送の中心であった。mT管やGT管を使ったセットも現れるが、ST管の5球スーパー中心の時代である。

メーカとしては戦前からの大手の松下、早川、戦後参入した大資本である東芝、新興勢力の八欧が市場の大半を占めていた。大手メーカとしてこの時代に大阪音響、三洋電機が参入した。蓄音機業界からの老舗であるビクター、コロムビアは健在であったが、日本ビクターは1954年に松下の傘下に入った。終戦直後にラジオに参入した三菱、NECは細々と生産を続けていたが、日立は撤退していた。日立は1955年に総合家電メーカになるため再参入する。そして同じ年にトランジスターのソニーが参入するのである。

その他のメーカとしては山中、ミタカ、七欧などの戦前から続く老舗メーカーがあげられる。これらのメーカはそれなりの規模を維持していたが製品のバリエーションも少なく、昔日の面影はない。実際には大手メーカの下請けで組立を請け負うことも多かった。戦後、ラジオに参入した安立、JRCなどの通信機、測定器メーカは、ラジオ部門を分離したため、いずれも一中小メーカになっていた。中小メーカにはポータブルラジオ専門メーカーがあるが、ポータブルはここでは割愛する(「真空管ポータブルラジオの離陸」を参照)。

この時代には、ごく普通の5球スーパーに、多くの無名メーカの製品が見られる。キャビキットもしくはキットで供給されたものも多く含まれると思われるが、詳細は不明である。メロダイン、ピジョンなど、それなりに製品を発表したメーカもあるが、いずれもその後ブランドを維持してセットメーカとして発展することはなかった。また、この頃、現在の家電量販店と同じような立場にあったデパートの家電売り場が特売品として安いラジオを販売する時や、共済組合、教育機関、宗教団体などが安いラジオを傘下の会員や組合員に販売するために独自のラジオを製作することがあった。このような目的には中小メーカの製品が主に使われた。

この時期、外貨不足の日本ではラジオセットの輸入はほぼ禁止されていた。旅行者や外国人、駐留軍関係者などが持ち込んだものを除けば、メーカなどがサンプルで輸入したものなど、ごく少数が輸入されたに過ぎない。デザイン面ではこの時代、特にアメリカ製小型ラジオの影響が大きく、多くの模倣品が現れた。

この時代の各社の製品を見ると、2台目需要を考慮した小型ラジオから高級電蓄まで幅広いラインナップを揃える松下などの大手メーカーと、デザイン違いの数機種しか持たない中小メーカーの商品力の差が現れるようになっていることがわかる。デザインも終戦直後のデザインを引きずったようなものから流行の先端を行くものまでが混在している。

RCA特許問題

この時代のトピックとして、RCA特許問題がある。これは、1952年に米国RCAから、テレビ、ラジオに関する特許契約締結申し入れが日本のメーカ各社に起こされた事件である。ラジオに関して言えば、この特許とは、スーパーヘテロダインの特許である。本来なら切れているはずのものだが、戦時中の休止期間のため、まだ生きていたのである。このため、日本のメーカ各社は1952年の神戸工業をを皮切りに続々と契約することになった。特に、この頃少数ながらポータブルラジオを中心に輸出が始まっていた。このため、ポータブル専業メーカのような中小メーカまでも締結することになった。

金を払ったのなら宣伝に使おうということか、この時代のラジオには「米国RCAとの技術提携契約に基づく特許使用」など、さもRCAから技術導入したかのような文句がカタログやステッカに表示されていることがある。特許料を払ったのは事実だが、ラジオがスーパーヘテロダインというだけで別にRCAが技術供与したわけではない。このような表示は、どちらかというと中位以下のメーカ製品に多い。ただ、日本が独立したこの時期から、1951年の松下-フィリップスを初めとして本格的な外資との提携による技術導入が行われていくのである。

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5球スーパーの回路と仕様

5球スーパーの回路はST管を使ったものが主流で、 6WC5 6D6 6Z-DH3A 42 80を基本とし、廉価版は出力管を6ZP1としている。また、パーマネント・ダイナミック・スピーカが主流となったことからB電圧が低くなり、整流管に80BK/80HK/12FKを採用したものも多い。6ZP1を使用した廉価版には12Fを採用するものもあった。高級型としてこれに高周波増幅段6D6を追加した6球式、マジックアイ6E5を追加したものがあった。細部は異なるが、回路はほぼ同じである。

ごく一部の小型のものを除けば、戦前からそれほど変わらない巾40cm程度の木製キャビネットがほとんどだった。デザイン的にはプラスチックを使えるようになったことでパネルのデザインのバリエーションが広がった。昔ながらのダイヤルとスピーカが並んだデザインから、パネルの幅いっぱいを使ったデザインが現れた。


新しいデザインのスーパーラジオ
ナショナルBX-290(1955年)

この他にごくわずかだが、GT管を使った6SA7 6SK7 6SJ7 6V6 6X5の構成のもの、およびトランスレス式 12SA7 12SK7 12SQ7 36L6 35Z5の構成のものもあった。供給が始まったばかりのmT管を使ったトランス式も6BE6 6BD6 6AT6 6AR5 6X4/5MK9の構成で作られた。初期のmT管は6AV6ではなく、6AT6を使用しているのが特徴である。また、マジックアイはサイズが大きなものは6E5を、小型のものは6E5Mを使用した。

当初はマジックアイも球数に含めて6球、7球と表記していたが、1956年以降5球以上のラジオの物品税が引き上げられたことからマジックアイは数に含まないことになった。
当サイトではわかりにくいため、1955年以前のモデルも「マジックアイ付5球スーパー」と表記する。

また、民放の開局以外の大きな変化としては、1950年以降中波のバンドが550-1500kcから現在のものに近い535-1605kcに拡大されたこと、および中間周波数が世界標準の455kcになった(従来の463kcは海岸局と干渉したという)ことがある。このため1951年以降、IFが455kc、中波のバンドが535-1605kcのセットが主流となる。


マジックアイ付6球スーパーの回路図
(ナショナルBX-235, 1954年)

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5球スーパー展示室:(以下別ファイル)

主にST/GT管を使用した1955年以前の製品:

5球スーパー展示室(1)大手メーカ編

5球スーパー編(2)中小メーカ、外国製品編

1954年以降のmT管を使ったセット:

ST管からmT管へ、5球スーパーの普及

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参考

<物価の目安>
1951年(昭和26年)頃
小学校教員の初任給5,050円
鉛筆1本10円、電球(60W)1個85円、もりそば1杯17円

対ドルレート 1ドル=360円

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参考文献

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