日本ラジオ博物館
Japan Radio Museum

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日本の放送開始期のラジオ
 
-鉱石と電池式受信機の時代-

1925-28


解説

放送以前

放送の開始

放送開始初期の番組編成

3局合同、日本放送協会の成立

放送開始当時のラジオ

型式証明制度

型式証明制度の形骸化

型式証明制度のその後

ラジオ業界の変容
-大企業から中小企業中心へ-

 鉱石ラジオ:庶民のラジオ

全国鉱石化
(NEW)

 真空管式ラジオ:富裕層向けのラジオ

 真空管式ラジオの低価格化と普及

参考(物価の目安)

参考文献

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ラジオ展示室
(別ファイル)

ラジオ展示室(鉱石受信機)

レシーバ展示室

型式証明受信機及び付属品

外国製電池式真空管受信機展示室

日本製電池式真空管受信機展示室

初期のスピーカ展示室

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放送以前

日本の無線通信研究、国産化の歴史は古い。ヘルツによる電波発生の実験(1886年)の3年後の1889年には東京帝国大学で長岡半太郎が火花放電の公開実験を行っている。マルコーニによる無線通信の実用化(1897年)直後から電気試験所による実用化のための研究が始まり、1899年から無線機の国産化が始まった。実用化された36式無線機は1904年の日本海海戦で大きな成果を挙げた。(6)第1次世界大戦後、1914(大正4)年、軍用だけでなく船舶で無線機が多く使用されるようになった事態に対応して無線電信法および私設無線電信規則が制定された。

1920年、アメリカ、ピッツバーグのKDKA局の放送開始からラジオ放送の歴史は始まった。日本でも無線の研究が流行し、新聞社などによる放送の実験が盛んに行われ、無線に関する研究書、雑誌が数多く発刊された。1923(大正12)年の関東大震災の情報途絶による混乱や、東京湾に停泊した船舶からの無線による情報伝達の成果により、放送実現の世論が盛んになった。

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放送の開始

翌1924年には放送施設出願が全国64件にも達したが、政府の方針により、公益法人に限ることとなり、東京、大阪、名古屋の三大都市に放送局設立が許可されることになった。1924年11月29日に東京放送局(JOAK)、翌25年1月10日に名古屋放送局(JOCK)、同年2月28日に大阪放送局(JOBK)が創立された(いずれも社団法人)。

設備の遅れにより仮放送ではあったが1925年3月22日、東京、芝浦の仮放送所からラジオの試験放送が開始され、日本のラジオ放送の歴史が始まった。出力はわずか220Wであった。このときの受信契約者はわずか5,455にすぎなかった。

同年6月1日からに大阪が仮放送(500W)を開始、7月12日には東京放送局が愛宕山に移り本放送を開始、7月15日に名古屋が本放送(1kW)を開始した。都市部のみのサービスエリアであったが、本格的にラジオ放送が始まったのである。アメリカでの放送開始から遅れることわずか5年であった。聴取契約者は、時代が昭和となった1926年には39万に激増した。


開局当初の愛宕山、東京放送局(JOAK) (絵葉書より)

ラジオは、無線電信法に定める「私設無線電話」の一つとして、逓信省の許可を受ける必要があった。私設といっても、本来は個人用ということではなく、官営や軍用ではない民間の無線局ということで、船舶無線用の無線局が対象であった。このため、許可申請の書式は本格的な無線局用のものが適用されたため、鉱石ラジオ1つを設置するにはばかばかしいほど大げさで、「工事設計」や「空中線の形式」などを記載し、図面を添付する必要があった。以下に、ごく初期の許可書を示すを示す。


大正期の私設許可書 (東京逓信局 1925年7月)

放送開始直後の1925(大正14)年7月に、東京府荏原郡玉川村奥沢(現東京都世田谷区奥沢)の聴取者に対する許可書。この初期の許可書に特徴的なのは、受信機の型式が明記されていることと、「相手放送無線電話」として、東京放送局が指定されていることである。逓信当局はラジオに対しても「無線局」として「無線機の型式」と「通信の相手方」を限定した厳格な許可を与える方針だった。実際には地域に放送局が一つで、当時主流の鉱石ラジオでは地元の局しか受信できないので大きな問題はないが、ラジオのダイヤルを動かすことは禁止されていたのである。

ラジオの本質が逓信当局にも理解されたのか、申請の書式はすぐに簡素化され、型式証明を受けたラジオに対しては添付書類の省略が認められ、申請書の記載内容も大幅に省略された。


大正期の私設許可書 (名古屋逓信局 1926年1月)

社団法人名古屋放送局開局から約半年後に、愛知県西加茂郡三好村(現愛知県みよし市)から出願された私設願に対する許可書。1926年に入ると、「相手放送無線電話」の指定と、ラジオの形式の記述がなくなっている。ダイヤルを動かすことが認められたのである。文面は後の時代の許可書と同じだが、横書きである点が異なる。名古屋放送局は1925年7月15日から放送を開始したが、聴取者数の伸びが悪く、この許可で出た時点で15,000を超えたばかりであった。
 
 聴取者数10万突破を記念して作られた駅鈴 (1925年頃)
(社)東京放送局が聴取者数10万突破を記念して製作し、関係者に贈られた金属製の鈴。奈良時代の初期郵便制度で使用された「駅鈴」をモチーフとし、片面にJOAKの文字、もう一方に当時使用されていたダブルボタン型マイクが描かれている。

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放送開始初期の番組編成

ここで大正15年の3局の番組表を紹介する。これはラジオの広告に掲載されていたものである。


ラジオ放送時間表 1926(大正15)年5月 米国ラヂオ商会広告(部分)

大正末期の東京、名古屋、大阪3局の平日の番組表である。これを見て特徴的なのは、朝9時から午後4時までの市場が開いている時間は昼休み以外の大半の時間を株式市況や商品相場で占められていることである。特に大阪はその傾向が強い。まるで現代の経済情報専門局のラジオ日経のようである。日曜祝日は娯楽番組や講演などで占められるが、平日の番組は現代の目で見るとかなり特異である。このような番組編成は、ラジオが地方の金融関係者や商工業者にとって非常に有用な情報源となることを示している。地元に放送局のなかった地方の富裕層がこぞって高級ラジオを備えたのは、娯楽のためというよりも、初期の携帯電話やコンピュータ回線と同じ、IT投資であったと思われる。

また、20分の時間枠に対して放送時間が5分などと非常に短く、休止時間がかなりあることも特徴的である。時間を売るアメリカの民間放送と違って日本の放送時間はゆとりのある編成であった。適当に伸び縮みしたり、ずれこんだりするのが当たり前だったという。びっしりと埋まって時間通りに進行するようになったのは、アメリカ流が導入された戦後からである(ゼロ・アワー放送)。

年鑑等に掲載されている放送時間の統計では、ニュース、娯楽、教養がきれいにバランスしているようなグラフが掲載されている。このようなデータを見ていると、この番組表のような偏った編成は想像がつかないが、休日も含めた放送時間で集計すればバランスしているたことになるのだろう(演芸や音楽放送が5分ということは考えられないので)。

このような平日の昼間を経済市況で埋めた編成は、1929(昭和4)年度まで続けられている。経済市況は、必要とするリスナーには貴重な情報だったが、決してその絶対数は多くなかったと考えられる。放送協会東海支部の岩崎命吉は、『調査月報』の論文(8)で、

経済市況の放送は必要なしと言ふにあらざれ共、其の利用者の全聴取者数に比して、極めて少数なるに反し、これが放送に可成り大なる努力と、時間とを拂われ居る現状は、大いに反省する必要があると思考される。
と述べている。これを反映したのか、1930(昭和5)年度からは、経済市況の間に料理や講演などの教養番組を挟むようになった。ただし、もう一つの柱であった娯楽放送については、前記岩崎は、同じ論文の中で、増やすことに否定的で、行き詰まりを生ずるとしている(8)。これは、まだ中継番組が少なかったこの頃昭和初期まで、地方局では演芸、芸能や音楽などの出演者不足という問題があった。むやみに娯楽番組を増やすとマンネリ化や質の低い番組が多くなることが危惧されたのである。

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3局合同、日本放送協会の成立

1926年8月20日、各放送局の反対の声はあったが政府の方針により東京、大阪、名古屋の3放送局は1つの社団法人に再編されることになり、日本放送協会が成立した。各放送局は東京を本部とする関東、関西、東海の支部に再編され、それぞれ中央放送局とされた。大阪放送局の本放送開始は1926年12月1日であるので、合同されてからの本放送ということになる。3つの放送局が独立して活動していたのは1年半余りの短い期間であった。(2)

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放送開始当時のラジオ

型式証明制度

放送開始直前の1923(大正12)年に公布された逓信省令「放送用私設無線電話規則」により、ラジオ受信機は逓信省の認可を受けたものとされた。これは放送の全国展開にあたり、政府の一元的な統制下に置こうとする方針によるものとされる。技術基準は1916(大正5)年に発令された逓信省令第50号 電気用品試験規則第4条により定めされ、

「受信波長帯が200-250m、350-400mに限られ、電波の再放射のないもの」
「受信波長を変更できないよう主要部分を封印すること」

とされた。試験を受け、合格すると「型式証明」が与えられ、合格番号と型式証明印(1924年制定)を表示することができた。


形式証明印

型式証明受信機は、波長切替が必要で、電波の再放射が許されないことから再生検波が使えず、感度が悪い上に高価なものになった。波長切り替えがあった理由は、300mバンド(1MHz) に、公衆無線通信(船舶電報)が割り当てられていたからである。放送用私設無線電話に与えられた聴取許可では、指定された放送局以外の電波を受信することが禁止されていたから、目的外のバンドを受信できない規格となっていたのである。実際には放送が始まってみると中波帯の真ん中に火花式の電波が居座っている状況は無線局近くの聴取者にとっては迷惑以外の何物でもなく、短波の実用化とともにこのバンドはラジオに明け渡されることになった。

自作の受信機でも電気試験所の試験を受けて型式証明を受けることは可能だったが、技術基準が厳しく、検査量が当時の月収に匹敵する50円と高額だったため、自作品が型式証明を受けることがなかった。形式証明品の生産は少なく、また、優秀な輸入品のほうが低価格であった。このため実際にはこの規則に合致しない多くの輸入品や手作りのラジオが使われていた。

日本独自の波長切替を要求するため、輸入品のラジオセットが型式証明を取った例はないが、英マルコーニが日本仕様として波長切り替えを備えた受信機を製作した事実はある。公的機関が発注したものと思われる。

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型式証明制度の形骸化

放送開始直後の1925(大正14)年4月18日の逓信省令第23号により波長切替が廃止され波長400m以下とされた他、空中線から電波を出さない構造(高周波増幅付など)であれば再生式も許可されるようになった。また、型式証明のないラジオにも逓信局長が許可すれば聴取許可が与えられるようになった。このため型式証明制度は有名無実となり、1925年10月以降、ラジオ受信機の試験を受けることはなくなった。型式証明は1924年から25年にかけて64種類のラジオ、部品に与えられ、その番号は2から71番(1,6,11-13,35,36は欠番)である。型式証明機器展示室はこちら

型式証明制度が生きていた時代にも欧米の受信機が輸入されている。これらは逓信省などの官公庁でも広く使われているだけでなく、皇室をはじめ多くの著名人が使用している。このような輸入品が全て無許可で使われていたとは考えにくい。輸入元のカタログには当局の許可を受けている旨の表記があるものもある。上記の通り規制が緩和されてからは、逓信局長の許可により正式に聴取許可が下りていたということなのだろう。

型式証明制度のその後

型式証明制度はラジオのついて1925年には強制力を失って、ラジオセットの型式証明を受けるものはなくなったが、廃止されたわけではない。スピーカやレシーバなどの用品や計測器に対しては型式証明が与えられていた。1928年から開始された放送協会認定制度も、型式証明と同じ電気試験所で試験が実施されていた。このため、両方のマークを受けた製品も存在する (第124号、シンガーB型高声器)。1929年にはナナオラのフラワーボックス六号型高声器が第151号の型式証明を受けているが、この機種も放送協会認定を取得している。

その後は計測器の型式証明が多く出されているが、最も遅い例として、1940年に沢藤SF333型レシーバが第251号の証明を受けている。1930年代以降証明を受けた機器は大半がメータなどの電気計測器である。

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ラジオ業界の変容
-大企業から中小企業中心へ-

型式証明受信機を多く製造したのは安中、芝浦といった通信機メーカと、有線の通信機器を手掛けていた日本電気。沖電気およびGEのライセンスを受けていた東京電気と芝浦製作所などであった。型式証明制度は煩雑であったが、もともと官の仕様に基づいて製品を製作し、検査を受けて納品してきたこれらのメーカにとって問題はなかった。しかし、これらのメーカは少量生産の機器に対してストの積み上げで価格をつける世界に生きていたためコスト競争力がなく、型式証明制度という独自の規制が有名無実となり、多くの民間企業が参入してくると価格競争力を失って放送開始後数年でラジオセットの生産から撤退した。

このことは、近年の電話機やコンピュータなどで、いわゆる電々御三家を中心とする通信機メーカが独自の規格に守られているうちは高価格の独自規格の製品で高いシェアを維持するが、世界基準の低価格品が入ってくるとあっという間に駆逐されてしまう「ガラパゴス現象」とよく似ている。日本の通信機市場の体質は90年前から変わっていない。ただ、この時代には現代の中国製品のような安価な輸入品は存在しなかったので、通信機メーカの敵は国内の町工場であった。

初期のラジオ界には、多くの中小企業が進出した。大半は中小企業というより個人商店や町工場であった。現代的な電機メーカは、企画、設計から製造、販売まで一貫した機能を持つのが普通だが、この頃は製造を請け負う製造元と企画(場合によって設計も)を担う総代理店(または卸元)、小売りや地方への卸売りを担う販売代理店の三社が協業することが多かった。この時代にラジオに目を付けて創業したものには貿易実務などを通してアメリカ市場を見たものが多い。

これから詳述する田辺商店の田辺綾夫や、三田無線の茨木 悟などである。いずれも資力があり、アメリカでラジオ部品やセットのサンプルを入手し、その模造と輸入販売からスタートした。ここで、代表例として大正期から昭和初期を代表するコンドルブランドで知られる田邊商店の歴史を見てみよう(7)。

田邊綾夫は日本ベニヤの専務であったが、ちょうどアメリカで放送が始まった1920年にシカゴでラジオに触れ、関心を持った。関東大震災で日本ベニヤの工場が焼失し、田邊はラジオ商、田邊商店を個人商店として創業、製造部門として坂本 新の出資を得て坂本製作所を設立した。ブランドはラジオは「コンドル」、トランスには「テストラン」とした。コンドルラジオは早い時期に大手と並んで型式証明を取得し、エリミネータ初期には放送協会の懸賞募集に当選するなど、高い技術力で知られるが、技術面は坂本製作所常務の原 愛次郎が支えていた。同社のマークが"T.H.S."であるのは、田邊、原、坂本のイニシャルを並べたものと思われる。田邊と坂本は(株)坂本製作所としてメーカになるが、1934年に経営不振により日本電気の傘下に入り、日本通信工業の一部となる。

田邊商店では、坂本の製品だけでなく、舶来品や国産他社製品の販売も行っていた。これはデリカの三田無線、サンダーの富久商会など、他の総販売元も同様であった。独自のブランドを持ち、その総代理店であっても、実際にはラジオ部品や製品の卸問屋でもあった。現代でいえば衣料品業界の製造小売(SPA)に近い。昭和初期に、部品よりもラジオセットの販売が主流になってくると、旧来の卸元+製造工場から、製造販売を一貫して行う「セットメーカ」になるものと、「問屋」に特化して、自社ブランドはOEMでまかなうようになるものとに分かれていく。田邊商店や七欧無線電気商会はメーカになった代表例、富久商会や廣瀬商会は問屋になった代表例である。

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鉱石ラジオ:庶民のラジオ

この頃の日本のラジオは7割がレシーバーで聴く鉱石ラジオだった。放送開始初期は、これでも25-40円もする高価なものだった。手作りすればもっと安かったが、庶民にとってはこれが限界であった。次に、鉱石ラジオを聴いている様子を示す。

ラジオのある風景(1)

鉱石ラジオを聴く少女 (撮影:金田増一 1926(大正15)年頃)
東京郊外の中流サラリーマンの家庭で撮影された写真。初期の探り式鉱石ラジオが使われている。メーカなどは不明だが、大型の高級なセットである。鉱石ラジオといえどもこの時代は高価で、サラリーマンにはこれが限界であっただろう。被写体の人物の年齢から、放送開始直後のものということが判明している貴重な写真である。この写真はもちろん演出されたものだが、ラジオは配線されており、実際に受信しているところと思われる。

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全国鉱石化

三局が合同してできた日本放送協会は、逓信省の指示を受けて、ラジオ普及のために全国鉱石化として、日本全国で鉱石受信機で受信できる環境を作るために、中央放送局のパワーアップと地方局の開設を推進した。放送協会は各地で電界強度を測定し、感度地図を作製した。次に示すのは地方局がなく、東京が関東甲信越をカバーしていたころの各地の必要な感度を示した地図。「全国鉱石化」を目指して埼玉県新郷の10kW大出力放送が始まったころのもの。


東京中央放送局感度略図 (1928年頃 絵葉書より)

この関東地方の地図では「鑛」は鉱石、数字は真空管式の高周波増幅の段数を示す。いちおう関東平野では鉱石受信機が使えることになっている。電波が強いように見えるが、これは高さ10m、水平12mの標準アンテナを使用する前提である。

エリミネータ受信機が普及し始めた1929(昭和4)年頃には、真空管式と鉱石式のシェアは逆転したが、まだ新規加入者の2割程度が鉱石式だった。放送局のパワーアップによって、電波が強い地域では鉱石受信機に能率の良いホーンスピーカを接続して使うことがよく行われた(9)。

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真空管式ラジオ:富裕層向けのラジオ

スピーカーを鳴らせる真空管式ラジオはセット自体が高価であった。比較的安価なものでも150-250円、舶来の高級品だと1000円近い、小さな家が建つようなものまであった。また、セットが高価なだけでなく、電源としてA,B,C3種類の電池を必要とした。特にフィラメントを点灯するA電池に鉛蓄電池を使用する場合は充電の手間もかかり、一般大衆が使用できるものではなかった。日本には主にアメリカの技術と製品が導入された。真空管は当初三極管UV-201が使われた。後にフィラメント電流を半減させた201-Aや省電力型の199が使われるようになって、A電池を鉛蓄電池から乾電池にすることができた。このため、1924年頃からは電池を本体に内蔵するセットが多くなった。

この頃真空管式ラジオを使ったのは富裕層に限られた。放送開始当時、東京、大阪、名古屋の3局しかなかった時代、地方でラジオを聴くには高価な真空管式ラジオが必須だった。次に、真空管式ラジオが設置された写真を示す。

ラジオのある風景(2)

1927(昭和2)年頃 (個人蔵、ガラス乾板)

この写真は、愛媛県内で代々庄屋を務めた格式の高い家の本家の屋敷内を撮影したものである。左側に、ホーンスピーカが載ったバッテリーケースを備えた大型の真空管式ラジオが置かれているのがわかる。中身は5球ニュートロダインであろう。このスタイルのラジオは日本独特のデザインだが、これが、日本間の床に直接置いて使うのに便利であったことがよくわかる。愛媛県から大阪の放送を聴くにはこれくらいのラジオは必要だっただろう。

江戸時代に殿様を迎えたという、床が1段高い奥座敷でなく、手前の座敷にラジオが置かれている点が興味深い。残念ながらこの写真は家が人手に渡った後の写真とのことで、調度品の位置が、使用していた時と変わっている可能性がある。この当時、室内に置かれたラジオを撮影した写真は少なく、貴重である。

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真空管式ラジオの低価格化と普及

当初は高価であったラジオやラジオ部品は、中小企業による国産化が進んだことで急激に低価格化した。放送開始の頃には鉱石セットで25円程度、真空管式では安くても150円程度したものが、昭和初期には鉱石式で5-6円、簡単な真空管式セットが50円程度で手に入るようになっていた。高コスト体質の通信機メーカはこの状況についてこられずにラジオ産業から撤退し、ラジオの製造は中小企業中心に進んでいくことになる。

ラジオの低価格化は庶民には朗報であった。放送のエリアは狭かったが、都市部では普及が進むことになった。前項で鉱石受信機の写真を紹介した金田家でも昭和3年頃には真空管式セットに買い換えている。

ラジオのある風景(3)

家族でラジオを楽しむ (撮影:金田増一 1928(昭和3)年頃)

前項で紹介した写真の数年後に撮影されたもの。前の写真に写っている少女が、この写真の左側の人物である。鉱石検波真空管増幅の安価な電池式セットが使われている。スピーカは英国スターリング社の製品をコピーした"NEW HOME"ブランドの国産品である。写真の椅子は庭に置かれている。撮影の都合上の演出で、実際には縁側でラジオを聴くようなことはなかった。この家は戦火を免れたが、ラジオは現存していない。この時使っていたと思われる充電器と電圧計が残され、当館に所蔵されている。

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参考

<物価の目安> 1922年(大正11年)頃
小学校教員の初任給45円
鉛筆1本5厘、タバコ(ゴールデンバット)1箱6銭、もりそば1杯8銭
対ドルレート 1ドル=2円

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参考文献

1)浦部信義 「社団法人名古屋放送局の成立」 『メディア史研究』 Vol. 20 (メディア史研究会 ゆまに書房)
2)向後英紀 「ラヂオ放送の夜明け JOAK東京放送局誕生まで」 『メディア史研究』 Vol. 20 (メディア史研究会編 ゆまに書房)
3)電波監理委員会編 『日本無線史』 第11巻 (電波監理委員会 1951年)
4)平本 厚 『戦前日本のエレクトロニクス』 (ミネルヴァ書房 2010年)
5)Radio Manufacturers of 1920's Vol.1-3, Alan Douglas, Vestal Press (U.S.A.) 1991
6)鎌田幸蔵 『雑録 明治の情報通信』 (近代文芸社  2008年 ) 1,300円
7)日通工社史編纂員会 『日通工75年史』  (日通工(株) 1994年)
8)岩崎命吉 「聴取者増加に対する一考察」 『調査月報』第2巻第5号 (日本放送協会 1929年) 
9)放送協会東北支部技術部「鉱石受信機による高声器聴取可能区域説明 『調査月報』第3巻第2号 (日本放送協会 1930年) 

        

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