日本ラジオ博物館
Japan Radio Museum

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無線のはじまり
 
-1895-1920-


目次

電信電話のはじまり

電波の予言と発展

無線通信のはじまり

火花式送信機

検波器

受信機

真空管の登場

終わりに

参考文献

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電信電話のはじまり


何事も突然発明されるということはない。それまでに要素技術が積み上げられ、その応用として新技術が発明される。無線の歴史を述べる前に、前段階として有線の電信電話について述べることにする。

18世紀最後の年にボルタの電池が発明されてから、19世紀に入って電気の研究が進んだ。その後、電気と磁気の間の作用についての研究が進みファラデー、エルステッド、ヘンリー、アンペール(アンペア)といった、現在でも単位に名前を残すような研究者が活躍し、電気と磁気の相互作用が解明されていった。

研究が進む中で、電磁石を応用した電信機が発明された(1830年代)。まだ発電機はなく、電力としての電気の利用より早く、電池で動かせる通信への応用が実用化された。当初は多くの線を利用して文字を伝送するものだったが、符号化することで2本の線で伝送するシステムが開発された。ここで使われたのがモールス符号であった。

初期の電信に使われた文字盤を使う指字電信機であればだれでも使うことができるが、モールス符号については、コードを覚える必要があり、オペレータの教育が難しいという問題があった。しかし、キーの上下動作だけで送信できるため習熟すれば送信速度は速かった。

当初受信側ではテープにコードを印字する電信機が使われたが、受信した信号が機械を動かす音を聞いて頭の中で文字に変換したほうが早いため、後まで続く、耳でコードを聞いて記録する方式になった。モールス符号を使う電信で使用する電鍵や受信側のサウンダ、電池などの要素技術は無線にも使われることになる。

ベルによる電話の発明は1876年のことである。これにより、マイクやスピーカの基本となる技術が確立し、音声を電気信号に変換して伝送する技術ができた。

19世紀の半ばに鉄道の発達とともに電信網が急速に普及した。19世紀後半には海底ケーブルも実用化されて大西洋を越えた通信も可能になったが、電線をつなげる場所同士でないと使えないという根本的な欠点があった。大海原を行く船舶との通信はできなかった。船の遭難は多く、「移動体通信」の実現が望まれていた。

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電波の予言と発展

1864年、英国の科学者、マクスウェルが、電気と磁気のふるまいを研究し、電気と磁気が作り出す場(電界と磁界)が相互に作用して進行方向に対して直角に振動する波を作り、高速で移動するという理論を打ち立て、4つの方程式(マクスウェルの電磁方程式)にまとめた。

この理論によって電磁波の存在が予言され、光も電磁波の一つであることが導き出された。理論の面ではここが原点となってアインシュタインの特殊相対性理論につながっていく。

マクスウェルの予言から20年以上たった1887年、ドイツのハインリッヒ・ヘルツの実験によって電波が存在することが実証された。彼は小さなループアンテナにライデン瓶にためた電荷を放電し、室内に置いた受信アンテナに接続した電極間に火花が発生することを観測した。この時検出された電波は極超短波帯であった。この帯域は現代はテレビ放送などに使われている。

ヘルツ自身は電波の実用化には全く関心がなかった。彼は電波が無線通信として盛んに使われる世界を見ることなく、37歳で亡くなった。ヘルツの名前は、その功績により、周波数の単位となっている。

マクスウェルの理論が発表された時、日本は幕末。ペリーが持ち込んだ電信機に驚いていたくらいであったが、ヘルツの実験が発表されたころになると、明治の文明開化を進めた日本は、すぐに長岡半太郎がヘルツの実験を追試し、無線電信の開発を進めた。

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無線通信のはじまり


1895年、イタリアのアマチュア発明家、マルコーニが手作りの無線機で無線通信の実用化に成功した。無線通信の良いところは、自宅に無線機とアンテナを用意すれば、有線の電信電話のように大きなインフラを用意する必要がなく、大きな組織や巨額の費用をかけずに開発に取り組めるというメリットがある。一アマチュアであったマルコーニが成功できた理由のひとつだろう。この頃、既に有線での電気通信は実用化され、大西洋ケーブルによる大陸間の通信を含め、ネットワークができていた。このため、大陸にある母国のイタリアではその価値を理解されず、マルコーニの成果は海洋国家で海外に多くの植民地を持っていたイギリスで評価され、彼はイギリスに移って特許を取り、起業して無線電信の世界で大成功した(1)。

このエピソードは、無線通信の本来の目的が移動体通信であることを示している。

日本の無線通信研究、国産化の歴史は古い。ヘルツによる電波発生の実験(1886年)の3年後の1889年には東京帝国大学で長岡半太郎が火花放電の公開実験を行っている。マルコーニによる無線通信の実用化(1897年)直後から電気試験所による実用化のための研究が始まり、1899年から無線機の国産化が始まった。実用化された36式無線機は1905年の日本海海戦で大きな成果を挙げた。(6)第1次世界大戦後、1914(大正4)年、軍用だけでなく船舶で無線機が多く使用されるようになった事態に対応して無線電信法および私設無線電信規則が制定された。この時代は、欧米の技術開発を確実にキャッチアップしていたといえる。

無線電信は世界各国で主に船舶無線として使われ始め、船客向けの電報も活用されるようになった。1912年にはタイタニック号の事故の際、世界初のSOSが打たれて注目された。1910年代前半には真空管はまだなく、火花式送信機とコヒーラなど様々な方式の検波器を使う受信機を使用する、モールス信号による電信が主流であった。


火花式送信機

初期の送信機は、高圧放電に含まれるノイズを利用するものだった。間隙(かんげき:スパークギャップ)の間に放電を発生させて、この火花をアンテナとアースに接続すると空中に電波を放出する。これを図にすると次の絵のようになる。


火花送信機の接続図 (3)

主要部品が誘導コイル(感応コイル)である。発明者の名前を取ってリュームコルフコイルともいう。少ない巻き数の一次コイルに電池を接続し、この電源を電鍵で断続すると、多くの巻き線を持つ二次コイルに高電圧が発生する。この高電圧を適当な距離を開けた電極(火花間隙:Spark Gap)に加えると、電極の間で放電する。

エンジンのイグニッションコイルも誘導コイルで、間隙(Spark Gap)をスパークプラグにしただけである。エンジンではノイズが出ないようにするが、火花送信機ではノイズ(電波)を積極的に空中に放出するのである。

火花には非常に広い範囲の周波数の電波が含まれる。まさにノイズそのものである。また、このような単純火花(普通火花ともいう)方式は、一次コイルを断続した瞬間に高圧が発生し、すぐに減衰してしまうという欠点があり、聞き取りにくいという欠点があった。

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検波器


コヒーラ

送信機の電波をキャッチするには受信機が必要となる。電波を検出して必要とする信号に変換するデバイスを検波器(detector)と呼ぶ。ヘルツが実験で使った火花間隙を使う検波器は、室内に置いた送信機の電波を受信してやっとかすかに火花が観測できる程度のものであった。つまり非常に感度が低かったので、実用的な検波器にはならなかった。

検波器にはいろいろなものが現れたが、実用化されたものとしては「コヒーラ」が代表的なものである。コヒーラは、細いガラスの筒に金属の粉を詰めて両側に電極を付けた素子である。1890年にフランスのブランリーが発明したものだが、近くで火花放電が起こると電気抵抗が小さくなるという性質があるため、発明者はこれを避雷器にすることを考えた。電波は放電の火花で起こしているわけだから、これで電波を検出できるということに気づいたのが英国のロッジであった。


ロッジのコヒーラ(レプリカ) オリジナルは1897年頃 (柴山 勉コレクション)

コヒーラ(coherer)の名前は密着するという意味のcohere からロッジによって名付けられた。ただ、発明者のブランリーはこの名前が気に入らず、電波を通すものという意味でradio conductor を提唱した。実際にはコヒーラのほうが一般的になったが、ラジオ(radio)という言葉が無線の世界に現れた最初となった。

コヒーラには、一度導通するとそのまま戻らないという欠点がある。このため、繰り返し信号が届くモールス符号の通信に使うには、ガラス管をたたいて密着した金属粉を元に戻すことが必要となる。指ではじくわけにいかないので、電磁石を使ってガラス管をたたく装置が作られた。「デコヒーラ」という。

符号を一つ検出するごとにたたいて戻さないといけないのでスピードに限度がある。せいぜい1分間70字程度、今どきの言い方だと2~3BPSといったところである。電波がある、ないの2つの状態しか検出できないので、モールス符号でしか受信できない。考えてみれば電信はデジタル通信だったのである。

日本における無線電信の研究は、1897(明治30)年に松代松之助によって開始された。この時製作されたコヒーラに近いものを所蔵している。マルコーニ型と呼ばれるものである(2)。


初期の日本製コヒーラ 1900年頃 (寄贈品)

初期にはガラス細工に苦労したというが、手作りの味が出たつくりである。本来はリード線が出ていたはずだが失われている。

コヒーラは今では検波器には使われていない。デコヒーラという機械的な部品があるためスピードが遅く、原理的に電波の有無の検出しかできない。コヒーラは放電を検出すると導通するという性質から本来避雷器として使うために開発された。このため、雷や空電などによる誤動作も多かった。

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鉱石検波器


検波器は磁気検波器、電解検波器、水銀検波器など多くの種類が開発されたが、競争を勝ち残って長く使われたのは鉱石検波器であった。

鉱石検波器は、黄鉄鉱や閃亜鉛鉱などの鉱石に金属の針を立てると、一方向にだけ電流を流す作用を使ったもので、これでAM検波ができる。レバーを操作して針と鉱石が触れる位置を調整して感度がよいポイントを探す。この操作から「探り式鉱石検波器」と呼ばれる。


探り式鉱石検波器 (左:1916年頃、右:1920年頃 アメリカ製 (柴山 勉コレクション)

今でいうなら点接触ダイオードで、半導体の作用を使ったものだが、当時は動作原理はわかっていなかった。鉱石検波器などの新しい検波器を使えるようになって、受信された電波の「音」を、電話機と同じ受話器を使って直接聞くことが可能になった。電波の検出だけでなく、整流作用によってAM検波が可能になったのである。これにより受信機は、モールス符号だけでなく、無線電話にも対応できるようになった。

日本では鳥潟右一によって開発され、1908(明治41)年に特許を取得した。「鉱石検波器」という名称も鳥潟が付けたものである。日本は鉱石検波器の研究では世界的に見ても進んでいた(2)。

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受信機


コヒーラはモールス符号専用なので、最初の受信機は音を聞くものではなく、電信符号を印字または指示するもので、有線の電信と同じ機器を使用することができた。

コヒーラ式無線電信受信機 1900年代 日本製


コヒーラと印字式電信機 1905年頃 日本製

これがコヒーラを検波器とした「受信機」の姿である。左端のガラス瓶は電源となるソーダ電池、中央奥が印字機で、紙テープにモールス符号を記録する。右端はリレイで、コヒーラが検出した信号によって接点を開閉して印字機の電源が断続され、信号が記録される。手前はデコヒーラを搭載したコヒーラである。

検波器の代わりに電信線がつながれば、明治初期からある電信機である。電信の場合は、電線を通してリレイを断続する電流を流せるが、無線では大きな電流を流せないので、実際には検波器側と印字機側に2個の電池が必要となる。検波器はリレイを制御するスイッチとして働く。ラジオというより無線LANにつながったプリンタというところか。

火花式送信機とコヒーラを使った受信機の無線電信は日本でも20世紀に入って実用化された。無線機が軍艦や商船に搭載されるようになり、無線機のオペレータの要請が必要になった。このため、教育実習用の無線機が製作された。

火花コヒーラ説明用無線電信機 島津製作所 1915(大正4)年
実習用のコヒーラ式無線電信受信機。実際には簡単な火花式送信機とペアで使用する(4)。

コヒーラに接続される短い金属棒がアンテナである。この長さではかなり短い波長に同調するが、火花は広い帯域の電波を含むので、短距離で実験するのに適した長さなのだろう。検波器の出力は台座に搭載されているリレイを駆動し、パネル中央にあるデコヒーラ兼用のベルを鳴らすようになっている。パネル中央の2組のターミナルはリレイとデコヒーラ用の電池を接続するものと思われる。
コヒーラの構造は、金属粉を固定する金具が本体を固定する端子を兼ねるもので、試作然とした明治のコヒーラと比べると合理的な構造になっている。

(所蔵No.m11244) 寄贈品
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真空管登場以前の検波器は増幅度を持たない。このため受信機の性能はアンテナの利得や同調のQに頼ることになる。受信機は今でいうならアンテナカプラやプリセレクタのようなものである。このため、本格的な受信機は複雑で物々しい姿になった。

波長計兼用5バンド長波受信機 SFR Serie 6 1916年頃 Société Française Radio-Électrique

 


ゆるんだ裏板を外した状態、実際にはこのような形にはならない。左がバンドスイッチ、右がTickerである。

DC4V, 検波器外付け、800-24000m (12-379kc)

フランス製の精密波長計兼用の無線電信用受信機。DETECTUER端子に検波器としてコヒーラ等をつなげば受信機となり、代わりに電流計を接続すれば精密なダイヤルを活用した波長計となる。受話器を接続して音声で聞くこともできるが、有線の電信機と同様、サウンダ(Ticker)を鳴らして受信するのが基本のようである。自局の送信機の波長を調整する測定器と受信機を兼用する機器である。当時は波長8,000-20,000m(15-37.5kHz)を長波、1,000-8,000m(37.5-300kHz)を中波、1,000m(300kHz)以下を短波と呼んでいた。当時の言い方でいえば、この機種は長波から短波までを5バンドでカバーするオールウェーブ受信機である。波長が長いためコイルの巻き数は非常に多い。分厚い真鍮の金具も相まって、大きさの割に重い。
(所蔵No. 11A364)

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真空管の登場

鉱石検波器の実用化によって、無線電話にも使えるようになり、音声の受信が可能となったが、鉱石検波器では感度に限界があった。また、火花式の送信機で実現できる電波の質にも限界があった。

もっときれいな連続波を発振し、もっと高感度の受信機を実現するには、増幅度を持った新しいデバイスが必要だった。最初の真空管の発明には発明王エジソンが重要な役割を果たした。1883(明治16)年に、エジソンは炭素電球のガラスが煤で汚れるのを防ごうと、炭素を吸収できるのではと思って電球の中にもう一つの電極を付けた。すると不思議なことにフィラメントと追加した電極がつながっていないのに電流が流れた。それも、追加した電極(アノード)をプラスとしたときだけ流れたのである。

これはのちに「エジソン効果」とよばれ、整流作用を示したのだが、なぜかエジソンは無線通信やラジオには関心がなく、1904(明治37)年に、これを鉱石検波器に代わる検波器として実用化したのは英国のフレミングだった。

この二極管には増幅度がない。1906(明治39)年、フィラメントともう一つの電極(形状からプレートと呼ぶ)の間にもう一つ電極を入れてみたのが、アメリカのド・フォレストであった。

この間に入れた電極(形状からグリッドと呼ぶ)の電位を変化させると、プレートからフィラメントに流れる電流を制御することができる。グリッドに印加する小さなエネルギーでプレートの大きな電流を制御できるので、信号を増幅することができるようになった。ド・フォレストは、自身の真空管を「オーディオン・バルブ」と呼んだ。

チューブラー型オーディオン・バルブの例 (AudioTron, Cunningham, U.S.A. 1917年頃)
初期のアメリカ製の真空管の例。カニングハムは、後に一流の真空管メーカになるが、この時代は自社の存在を隠して"Licenced by De Forest" を詐称する新興メーカに過ぎなかった(5)。

(所蔵No.72001)
こうして増幅度を持つ「能動素子」が登場した。増幅度を持った三極真空管を使えば、発振させることもできる。実用的な真空管による発振回路は、1912(明治45)年に、アメリカのアームストロングによって発明された。もう火花をバチバチ飛ばして電波を出さなくてもよくなった。真空管によって純度の高い連続した電波を出せるようになり、火花式送信機は急速に真空管式に置き換えられた。

当初真空管は安定度が低く、1910年代までは磁気検波器や鉱石検波器が実用で使われたが、真空管の改良によってこれら初期の検波器は過去のものになった。

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終わりに

真空管の登場により、無線機の設計は大きく変わり、電子回路の時代が始まった。業務用や軍用の無線機はそのまま真空管式から半導体へと進化していくが、アマチュア無線から枝分かれする形でラジオ放送が始まり、家庭用のラジオは通信型受信機とは異なる形で成長していった。無線からラジオへの変化については下記を参照。

無線からラジオへ

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(別ファイル)

解説:放送のはじまりと初期のラジオ

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外国製電池式真空管受信機展示室

日本製電池式真空管受信機展示室

初期のスピーカ展示室

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参考文献

1)高橋雄造『百万人の電気技術史』(工業調査会 2006年)  Amason.co.jpで購入する
2)若井登監修『無線百話』(クリエイト・クルーズ 1997年) Amason.co.jpで購入する
3)伊藤賢治『無線の知識』1924年
4)永平幸雄・川合葉子『近代日本と物理実験機器』(京都大学出版会 2001年) Amazon.co.jpで購入する
5)John W. Stokes, "70 Years of Radio Tubes and Valbes", The Vestal Press Ltd. 1982 Amazon.co.jp で購入する
6)日本アマチュア無線連盟 『アマチュア無線のあゆみ -日本アマチュア無線連盟50年史-』第2版 CQ出版 1983年  Amazon.co.jp で購入する

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